語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

千葉 愼次郎さん 男性

4歳と2歳の孫を見ると、目が熱くなる。
皆さんのおかげでこの様に成長したのです。

 2011年3月11日、午後2時40分頃、突然襲って来た巨大地震。地震による縦横の、今まで経験した事のない大きな揺れであった。
外に居た私は、つかまる所も無くその場に立ち竦んだ。
家の中には、年老いた母、妻と、里帰りしていた出産後間もない娘と孫、そして二歳の孫の五人がいる。
 こんな大きな地震では、津波が襲うと直感した私は、家族を車に乗せ、待機した。
 妻は孫二人分のオムツとポット、20日余りの孫のミルクの全てを車に積んだ。
車に乗った直後、「津波が来たー。」と叫ぶ声。

 一瞬にして、40数名の死者と行方不明者

地区の8割の家屋が流されてしまった


 川沿いの道に出た時には、水面が道と同じ高さまで達していた。ガレキと津波が追いかけるなか、後を振り返らずに、山へ山へと逃げました。

 バリバリと、ガレキと泥水が追いかけ、ただただ林道を山奥へと夢中で車を走らせました。

 カーナビからのニュースでは、揺れが続く地震と津波の巨大さが繰り返し流れているだけだった。

 揺れがおさまりかけ、先に様子を見に下がった人が「大丈夫みたいだヨ。」と教えたので、車で人家の所まで戻った。

たった一軒だけ残った家のそばで皆が集まって、口々に「皆、流されてしまった。何も残らない。」という。

 信じられないが、一瞬にして、40数名の死者と行方不明者、地区の8割の家屋が流されてしまったのだ。

 私達が「まさかここまで津波が襲ってくるはずがない。」という安心さ、過信さがこの様な惨事になったのだと思います。

 そして幸いにも車で近くの山に逃げられたという事が、助かった最大の要因だと思う。これからの災害に備えて、徒歩で避難できる小高い場所が近くにある事と、車で避難できる道が必ずあるべきです。今回の災害で私は、身を持ってそう思います。


孫達のオムツとミルクまで

救助の人達が運んでくれた


 被災当夜、たった一軒残った家の、ビニールハウスの中で一夜を過ごしました。布団や毛布、家の中の全ての寝具を出してもらい、石油ストーブとそれらのもので、寒さを感じる事もなく、過ごさせてもらいました。感謝、感謝です。

 中に入れなかった人達は、雪の舞う外で、小枝を集めてたき火で暖を取りながら、夜の明けるのを待ちました。

 翌朝、救助に来てくれた消防団の指示に従い、母は消防団の方々がタンカで運んでくれ、二歳の孫は妻がおんぶし、産まれて間もない孫を娘が抱き、夢中で避難所へと向かったのです。

 孫達のオムツとミルクまで、救助の人達が運んでくれたので、物資で調達できるようになるまで何とか間に合いました。

 今、4歳と2歳を過ぎた孫達を見ると、目が熱くなります。

 皆さんのおかげでこの様に成長したのです。


死亡者発見の訃報ばかり

体調を崩し、病院へ搬送される人も


 避難所への途中の道は、ガレキと流木、泥で寸断されてはいたものの、川へ下りたり、残った道へ上がったりの繰り返しで、何とかたどり着きました。

 250名以上の住民で避難所はゴッタ返していて、厳しい寒さの中での生活は、戸惑うばかりでした。

 集団生活といえども、明日への見通しがつかない不安の日々。

 自治会が主体となり、避難所内に、対策本部が立ち上げられ、活動が始まりました。

 着の身着のままで避難した人々には、高齢者、乳幼児、体の不自由な人達もいました。

 対策本部を中心に、避難生活者の調査等、狭い体育館内の避難所生活者の整理の毎日でした。

 日がたつにつれ、被害の規模も明らかになり、それに従い、日毎、捜査隊からの情報は、「誰が見つかった。」という、死亡者発見の訃報ばかりで、驚く毎日でした。

 そこでの生活の疲れから、体調を崩し、病院へ搬送される人も出てきました。


全国から届く支援は、何にもかえがたいもの

震災の恐ろしさと教訓、感謝を伝えていかなければ


 そんな中、数日後、ボランティアの人達が来てくれた事は、避難所生活の住民にとっては救いの手でありました。

 食事、寒さを防ぐ衣類、寝具等の物資が届く様になった時は本当に助かりました。

 全国から届く支援は、何にもかえがたいものだったと思います。

 私達は、もし立場が逆であったなら、何が自分達に出来るかと考えさせられる時でもあります。

 人々は、時がたつにつれ、感謝の気持ちを忘れてしまうものではないでしょうか。

 その為に、体験者である私達が、震災の恐ろしさと教訓、そして感謝を後世に伝えていかなければならないのではないでしょうか。


(平成25年10月)