語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

吉田 三喜男さん 男性・65歳

流した財産は大きいが
得た物を財産として後世に引き継いでいく

 旧唐桑町役場に昭和47年奉職、平成の合併により、気仙沼市役所職員となり、平成19年3月退職しました。
 先代から100年以上続いている定置網漁業の8名で経営している株主の1人であるため役所を退職して働くことになりました。
 小雪の降る平成23年三月11日午後2時46分今まで経験した事の無い大地震であった。
 私はその時、海岸にある定置網の番屋で作業を終って、みんなでお茶を飲み解散寸前の時間であった。従業員16名で働いていました。只事でない揺れなので、家に帰る様指示して解散させました。


子供が風呂で遊ぶオモチャのように
流された家々


 従業員を帰した後に財産を守るため専用のトラック2台とマイクロバスを高台にある神社の境内に移動して、番屋に施錠し海を見たら海水が5m位下がっていました。
 この時点で私は「チリ津波」を経験しているので、それ以上の津波が来ると感じ、通勤用の軽トラックで我が家に迎えました。
 時計の針は13時10分頃であったと記憶しています。3分で我家に着きましたが、数軒の家の瓦が崩壊していました。又地区の方々は私の家の前が高台なものですから50名位の人達が避難していました。その後3~5分で真っ黒になった海水が集落を飲み込みました。
 携帯カメラで写そうと思いシャッターを切りましたがあまりにも大変な光景のため手が震えてシャッターを切る事が出来ませんでした。あの光景は地獄の一コマ(映画)のようでした。流された家々は子供が風呂で遊んだオモチャ以上でした。


メモ用紙には
「188世帯中流出した家は144軒」


 我家は足本手前までで水害はのがれたのでメモ用紙(ノート)とペンを取りに行き避難して来た人の名前と人数を記入しました。
 そのため付近の人で高台に避難が遅れた人達を確認することが出来、あの家では誰と誰が住んでいるが大丈夫だろうかと心配しました。
 私達の地区は岩手県陸前高田市との県境で宮城県の最北部であり県境まで車で5分位の集落であり188世帯で流出した家が144軒死者42名です。
 夕方まで高台にいましたが、小雪が降り寒さ身にしみる時間となり木を集めて火を燃して暖を老人達に取らせ暗くなって来たので年の多い人から順に中学校の体育館に移動させました。
 18時過ぎ私も電気の無い中歩き皆さんと合流しましたが他地区の方々もいっぱいで(800人)助かった事の話で涙を流し、手をにぎり合っていました。夜になっても余震が何回もあり一晩一睡もせず夜が明けました。


死体発見作業
見つからない人達は海へ…


 夜明けから不明者の名簿を作成、捜索に行き数名の遺体発見し気仙沼市内の小学校体育館が安置場所に指定されましたので軽トラックで2体ずつ搬出しました。
 タンカも無くガレキで作り大変な事ですが皆心を一つにして今想えばよく頑張ったと思います。その後自衛隊、他県からの警察官の方々の応援を頂き死体発見作業を地区民と一緒に行い、42名中37名を発見しました。
残りの人達は海に流出したと推測されます。
 死体捜索が終り流出したガレキ片づけ、流されず被害をのがれた家に通い道路整備、ライフライン「水道」の復旧の手伝い等約4ヶ月間家の事を投げ出し過ごしてまいりました。


海の恩恵で発展してきた…
海をうらむ事は出来ない


 ライフラインが止まり食料も無く皆である米を持寄りなんとか生きて来たと思うのが実感です。1週間位だと思うが全国の方々からの救援物資が届く様になりいくらかずつ平常心に戻ってきたと思い出されます。
 その後ボランティアの人達、全国の方々からの物資等本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 流した財産は大きいが得た物も大きな財産として後世に引き継いでいきたいと思っています。だからと言って海をうらむ事も出来ません。海からの恩恵を受け今まで発展してきた沿岸部の地域ですから…。
 ほんの一部を書いてみましたが色々反省することばかりです。避難所での役割の方法、老人に対する心くばり、子供に対する方法等色々ありますが、まずは今回受けた東日本大震災で学んだ事を伝え続けてほしいと思います。その事により万一の時誰かの命を救うためにも被災地は語り続けなければならないと思います。


 (平成25年10月)