語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

宝田 和夫さん 男性

宝田 和夫さん

海が燃えている。
目の前でくり返される、悪夢のような光景

 私の勤務するホテルは、国から指定された地震防災規程ホテルで、平成18年に当館の地震防災対策計画への取り組みが評価され、その模様が防災の日に NHKから全国に放送されました。またこの防災規程により、私達には近隣の住民の避難誘導も速やかに行うことが、義務づけられておりました。


大津波警報発令。
一刻も早く勤務先のホテルに戻らねば!


 その時、私は気仙沼市役所にいました。 
 午後一時からの会議のあと、同じ市庁舎で確定申告の順番を待っていました。いよいよ私の番が来て、用意した書類をテーブルに広げたとたん、今までに経験したことの無い強い横揺れに襲われました。その揺れは容赦なく長い間続きました。まもなく大津波警報が出たことを知り、一刻も早く勤務先のホテルに戻らねばと屋上の駐車場へ走りました。市役所前の坂道を下ろうとした時、目の前の交差点の大渋滞を見て、一瞬車を使った事を後悔しました。しかし幸いなことにホテルに向う道が車の流れとは逆方向だったため、無事帰館することが出来ました。


見慣れた街がどす黒い無気味な波呑まれ
海が燃えている――悪夢のような光景


 私がホテルに戻ると、近くの保育園の子供達や近隣の住民が集っていました。当日は雪がちらつくほど寒かったため、毛布を配りながら人々をより安全な場所へと誘導をしていると、ロビーから想像もしていなかった高さの津波が押し寄せて来るのが見えました。見慣れた街の景色が、どす黒い無気味な波に次々と呑み込まれていきました。浮き上がった建物や船や車が、ぶつかり合いながら大きな音をたてて波にもまれ、やがて引き波にさらわれていきました。
 悪夢のような光景が、目の前でくり返されました。波がいくらかおさまると、次は火災が発生しました。海が燃えているのです。
 油層所のタンクから気仙沼湾一面に流れ出た燃油が燃え出し、湾内一帯が火の海と化しました。


避難して来る人達でロビーは溢れる
この時ほど夜明けが待ち遠しかった事はない


 ちょうどその頃、ホテルでは従業員が館内に留まっている宿泊客や避難者を守る行動を進めていました。館内ではすべてのライフラインが停止。そのまま客室にいると危険なため、全員の安否がすぐに確認できるよう、ロビーや宴会場を一次避難の場として、そこに身を寄せてもらいました。夜になると外部から大勢の人達がホテルに避難してきました。まだ水が引かないヘドロの中を、必死の思いで避難して来たのです。幸い大浴場のお湯がまだ温かだったので、体を洗い冷え切った体を暖めることが出来ました。まっ暗な中を次々に避難して来る人達でロビーは溢れました。この時ほど夜明けが待ち遠しかった事はありません。
 白々と夜が明けてくると、高台に建つホテルの大きな窓から街の様子が少しずつ見えてきました。気仙沼湾のあちこちに焼け焦げた船が浮かび、臨港道路には大型漁船が何艘も打ち上げられていました。市街地に目をやると、家屋が一面に倒壊し、おびただしい数の車がスクラップ置場のように重なりあって置き去りにされていました。
 どこもかしこもガレキで埋め尽くされ、歩くことすらままならない状態でした。


ガレキの山が姿を消し
被災地観光という言葉を耳に


 震災から1年半が過ぎた頃、世界中から駆けつけてくれたボランティアをはじめ、復興に携わった多くの人々の力で、被災地を埋め尽くしていたガレキの山がほとんど姿を消しました。この頃になって、被災地観光という言葉を耳にすることが多くなってきました。
 仮設商店街や屋台村が市内のあちこちに建てられ、これまでの自粛ムードから一変して、被災地の復興支援に各地から観光客が訪れるようになりました。またそれと同時に、観光客から被災地めぐりの語り部を要請されることが多くなってきました。しかし、すぐには対応できませんでした。被災者が語り出すまでには、ためらいがありました。また時間も必要でした。


 様々な職域で震災を体験した
30名を超える語り部


 平成24年11月、気仙沼観光コンベンション協会の震災復興語り部事業が動き出しました。
 30名を超える様々な職域で震災を体験した語り部が、専門の知識や経験を活かして、被災時やその後の対応、そして復興に向けた歩みを説明します。依頼者は一般の観光客のほか、ボランティア活動を組み込んだ教育旅行や、将来予想される震災を視野に入れての、業界団体や企業の研修旅行に採り入れられるようになりました。
 平成25年9月、東日本大震災から2年半になろうとしている日、市街地に取り残された大型漁船の解体作業が始まりました。港から900m余り離れたJR大船渡線の鹿折唐桑駅の近くに、巨大津波によって運ばれた、第18共徳丸です。この船は長い間、震災の遺構としての保存の是非が問われていました。
 震災のあと、多くの人々がこの場所を訪れ、この船のこと、この街のことを記憶に刻み、再びこの地を訪れることを意に表し、帰っていきました。深謝。


(平成25年10月)