語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

瀬戸 元さん 男性

東日本大震災の体験談


釜石観光ボランティアガイド
 幹事 瀬 戸   元
 (前・釜石市両石町内会長)


 私の住む両石町は、釜石市街地から4キロ北部に所在する浜集落です。昔から津波の常襲地で、江戸時代末期安政3年の大津波より今日まで約160年の間、明治、昭和の大津波、そして東日本大震災の巨大津波と町内は4度も被災し壊滅した浜集落です。


 その度に臥薪嘗胆、生き残った住民は一丸となって町内の復興に取り組んできました。


 津波の常襲地、町内の壊滅・・・、何で町内の復興に執着するのか・・・、他の安全な町へ移住すれば良いのでは・・・と囁かれます。


 平成16年の新潟県中越地震で壊滅的な被害を受けた旧山古志村、加えて標高500m以上の山村のため、毎年々々2m以上もの豪雪に見舞われ孤立同様の被災地ならば里(長岡市内)に移住したら・・・と尋ねたところ、いやいや、ここが先祖代々よりの"ふるさと"だからと言われ、その応えに私は赤面しました。


 そうだ・・・、津波の常襲地であろうとも、ここが先祖伝来の"ふるさと"なのだ。


 だから、先人も"ふるさと"だから復興したのだ。なれば、我々もこの町を復興し子孫に引き継ぐ責務があるのだ・・・と。


 さて、そのうち大きな津波は来るであろうが、我々の目の黒い内に巨大津波が来ることはあるまい・・・と、市民の大半は考えていました。だから、大震災の後の第一声は、まさかという言葉でした。その思いを裏付けるように釜石市内の犠牲者千人余のうち自宅で犠牲となった者は約4割、また約8割は50才以上の高齢者で、本来ならば防災知識を生かし安全な場所へ率先避難しなければならない方々でした。


 私は、若い時から津波史を研究していたため町内会の津波記念誌を作成したり、地元の中学校で防災学習に協力したり、それが「釜石の奇跡」を生む爪の垢ほどでも功績があったのでは・・・と、自負しています。


 また町内会長として、住民の命を守るため「「先人の教訓」"命てんでんっこ"」の啓蒙啓発に務め、それは「率先避難」「共倒れ防止亅「家系存続」を説く津波防災には欠かせない先人の教訓でした。


 わが町内では、その教訓が生かされ地震発生後20分以内に避難しましたし、また時代背景に合った"要援護者"の避難救護「15分ルール」を発案し成功させました。


 よって、防災を考える時には「温故知新」・・・、津波の歴史を調べ新しい取り組みを考え、危機管理意識を強く抱いて行動を起こせば被害を最小限に留めることができ、後世に最善の教訓を残せるものと思って取り組んできました。


 あの時・・・、前年暮れから鉛色をした空・・・、そのような天候不順が続き、また微震も多かったので、何となくいやな予感がしたのです。しかも大震災の前月は、地震も小康状態となり、これは、明治、昭和の大津波の事例から、もしかして・・・と胸騒ぎを覚えたのです。


 そして大震災当日の2日前に、突然M7.3の地震と数十センチの津波があり、翌日には午前中だけで33回の地震・・・、私は、もしかして近日中に・・・、いや、絶対に大津波が来る・・・、明治の時と同じだ。長年、津波史を研究している者としてそう確信したのです。


 その年の年頭には、町内会として大津波が予想される場合には中途半端な避難対応ではなく・・・、常に"死ぬか、生きるか"を考えて対応するようにと申し合わせをしていました。それには、要援護者の救護体制(車両搬送)を徹底すること、避難誘導用の大型無線マイクの備え、また個人的には食料の備蓄や野宿対策として暖をとる薪、ブルーシートなどを身近に置いたりなど・・・、とりあえず、私は、長(管理者)として考えられることを指示したのです。


 そして、あの日の午後・・・、午後2時46分いきなり大地震が発生しました。


 その時、私は近いうちに津波が来るとの思いから海岸へ出向き津波高を調べる棒を取り付けている最中でした。海面から1mほどの桟橋へ腹ばいになっていましたので、その目の前へ地震の振動で小魚が飛び上がるように海面が勢いよく跳ね上がりました。同時に、すぐ海が沖の方へ動いたのです。


 初めて見る光景でした。おぉっ、海が動くということは、震源地が近い・・・、直ぐ大津波が来るぞ・・・と、咄嗟に思いました。30分以内・・・、過去の記録から30分以内が勝負・・・と思い、側に止めていた愛用のバイクへ駆け寄りました。


 大地震は、止むことなく続いています。海岸の側の山からは岩が転げ落ち、遠くの山々は白煙を上げています。土砂崩れが起きているな・・・、とんでもない大地震だ・・・。


 大津波よりも天変地異か・・・、いやいや、もしかして日本沈没か・・・と、本当にそのように思いました。(後から、白煙は杉花粉と分かりました)


 町内会の自主防災活動の申し合わせどおり災害時想定行動を開始しました。


 それは、先ず要援護者の救護と避難指示です。そして津波避難の呼び掛けに、絶対必要な大型無線マイクを取りに、直ぐ町内会の事務所へ向かいました。


 大型無線マイクをバイクに積み、日ごろ避難訓練して頭に叩き込んでいる・・・、数人の要援護者を避難指示するためバイクで駆け巡りました。幸いにも、どの要援護者も申し合わせどおりの家族の車や近所の軽トラで搬送避難の準備中でした。


 これならば安心と・・・、高台(海抜30m)にある自宅へ向かいました。


 そして、何時でも持ち出せるよう玄関に準備していたビデオカメラを持って、自宅前の指定避難場所へ向かいました。その避難場所へ辿り着いたのが、大地震発生後、20分経った午後3時5分頃でした。


 過去の記録から、三陸沖地震津波は地震発生から約30分で襲来するのです。そろそろ来るな・・・、大津波が来ないでくれ・・・、心に念じました。


 眼下の漁港を見ると、既に海が引き巨大津波が起こる時の前ぶれとして、津波の水圧で海底のヘドロが黒い渦となって沸き上がっていました。


 黒くなった海、黒く濁った海・・・、これが大津波となるか否かの判断にもなるのです。


 午後3時10分、漁港を護る沖防波堤・・・、海面より高さ4m位のその沖防波堤を大津波が白波を立てて超えました。


 大津波だぁ~!、逃げろ~!、左手に無線マイクを持ち何度も避難の呼び掛け・・・、右手には後世への記録とすべくビデオカメラを持ち震えながらの撮影でした。


 でも、大津波襲来は今までのイメージとは違っていました。それは、過去の津波は、サーフィン型で怒濤となって押し寄せてきた・・・と伝えられていたのですが、今回の巨大津波は盛り上がり型で、そして雪崩のように押し寄せてきたからです。雪崩型は、平地には強く、どこまでも押し寄せ被害を大きくするからです。これは、新しい発見でした。


 そして、大地震発生後30分経った午後3時15分・・・、黒い濁流となった悪魔の津波は、見るみるうちに巨大津波となって・・・、町内を護る高さ10mの防潮堤を難なく越え町内へ雪崩込みました。


 第1波は、明治・昭和の大津波と同じ位の高さ15m位・・・、あれっ、引き波がない・・・、これも発見でした。そして、午後3時23分、第2波が襲来・・・、引き波がなかった第1波へ覆い被さるように未曾有の天変地異を思わせる高さ22m超の巨大津波となって町内へ雪崩込みました。5分後、2km沖までも大きな引き波が起こり、それは地獄絵図でした。


 第1波で町内の半分が、第2波で町内が壊滅状態となったのです。それも巨大津波の威力により海岸から奥行700mの町内は、1分足らずで消えてしまったのです。


 そして、第4波目の巨大津波でわが町の堅固な防潮堤が決壊し、結果的に夕方4時半までに10m以上の巨大津波が7回も押し寄せたのです。


 津波の引き波は、先人の言葉どおり・・・、鬼の爪を立て悪魔の笑いをしながら、町内230戸中高台の15戸のみを残し、また人口602人中45名の尊い命を奪い・・・、本当に"跡に残るは涙の種のみ"とはこのことか・・・と、拳を握りしめるだけでした。


 -夜明け、一瞬にして消えた"ふるさと"を見て夢であってくれ・・・と涙しました。


 犠牲者となった住民は、ここならば明治も昭和の大津波も来なかったところだから・・・と安心して避難したのですが、まさかと思う突如の巨大津波に周章狼狽しながら飲み込まれてしまったのです。


 町内会は、明治、昭和クラスの大津波を予想しても、その倍の高さの巨大津波が襲来するとは夢にも思っていませんでした。また家族同様である犬や猫・・・、町内には5、60匹は居たであろうが・・・、その離愁の鳴き声すら聞くこともなく、助かったのは高台の4、5匹のみだけでした。


 町内は、国道であろうと路地であろうと瓦礫で寸断され3日間孤立してしまいました。


 しかも肝心の釜石市役所、警察、消防署・・・、いわゆる行政の中枢機能が被災したため情報が収集できず・・・、それでも、役所関係は機能しているのだろう・・・、そのうちに救助に来てくれるのだろう・・・と信じて、私の備蓄品や近所の炊き出しの援助を得ながら救援を待っていたのでした。                                          合掌


大震災発生の正月 町内風景

大震災発生の正月 町内風景

第二波引き波後の漁港

第二波引き波後の漁港

第四波により防潮堤決壊消えてしまった町内

第四波により防潮堤決壊消えてしまった町内