語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

佐藤 敏郎さん

大川小学校事故について


 佐藤 敏郎


 平成23年3月11日の大震災で,石巻市立大川小学校では全校108名中,74名の児童が犠牲になりました。教師も10名が亡くなっています。108名と言っても欠席や帰った子もいるので,校庭にいた9割以上の児童が波に飲まれています。学校管理下で,このような犠牲を出したのは大川小学校以外にありません。大川小より海に近い学校はもちろん,もっと海から遠い,上流の学校や保育所も逃げています。


  震災1ヶ月後,ようやく最初の説明会が行われました。そこでは遺族に対し「バキバキと木が倒れてきて山へ避難しなかった」と説明がありましたが,倒木は一本もありませんでした。その2ヶ月後に行われた2回目の説明会は,質問が噴出しているにもかかわらず,時間だからと途中で打ち切られ,報道には「遺族は納得」「説明会はこれが最後」というコメントが発表されました。この6月までの市教委の対応の不誠実さが,今日までの状況を生み出したと言えます。


  その後,さまざまな事実や資料が明らかになり,24年1月に話し合いが再開しましたが,石巻市教委も,その後文科省が立ち上げた検証委員会も,説明を尽くしてくださったとは思えません。特に,もっとも知りたい「なぜ避難しなかったのか」については,踏み込んだ議論をせずに「忘れた」「今後検討」を繰り返し,ごく一般的な提言をまとめるにとどまっています。


 震度6というそれまで体験したことのない強い揺れが3分も続いた後,大津波警報が発令され,防災無線やラジオ,市の広報車がさかんに避難を呼びかけていました。その情報は,校庭にも伝わっていて,子どもたちも聞いていました。


 体育館裏の山は緩やかな傾斜で,椎茸栽培の体験学習も行われていた場所です。そこに逃げようと子どもたちも訴えていました。迎えに行った保護者も「ラジオで津波が来ると言っている。あの山に逃げて!」と,進言しています。スクールバスも待機していました。


 校庭で動かずにいる間に,津波は川を4km遡り,堤防を越えて大川小を襲いました。15時37分。地震発生から51分,警報発令からでも45分の時間がありました。


 子ども達が移動を開始したのはそのわずか1分前,移動した距離は先頭の子どもで180mほどです。なぜか山ではなく,川に向かっています。ルートも,狭い民家の裏を通っています。しかも,そのまま進めば行き止まりの道です。


  時間も情報も手段もあったのに救えなかった,それはなぜかを議論することが必要です。ところが,市教委の説明では,「時間が十分にあった」「子ども達が逃げたがっていた」「ラジオ,保護者の呼びかけなど,津波の情報を得ていた」「山に登るのが可能だった」「スクールバスが避難の準備をしていた」という明らかな事実を,曖昧なものにしています。助かった子ども達が,犠牲になった友だちのために,一生懸命話してくれた証言さえ,なかったことにされました。


  危機感がありながら「逃げろ」と強く言えなかったのはどうしてかを考察しなければなりません。守るべき命,しかも守ることが可能だった命を守れなかった事実から目を背けてはいけません。警報が鳴り響く寒空の下,校庭でじっと指示を待っていた子どもたちの姿に目を凝らし,耳を澄ませば,方向性は見えてくるはずです。正面から向き合おうとしない市の姿勢は残念でなりません。


 誰も悪意をもっていたわけではありません。先生方はみんな一生懸命だったはずです。でも,救えなかった。きっと先生方は,黒い波を見た瞬間「ああ〇〇すればよかった」と後悔したはずです。その後悔を無駄にしたくありません。個人の責任やミスを責めるのではなく,学校という組織が本来の目的に向かうための議論につなげていくつもりです。子ども達の命を真ん中にして,誠意をもって向き合えば,必ず方向性は見えてくると信じています。


 大川小学校の校歌には「未来をひらく」というタイトルがつけられています。大川小は,始まりの地です。命の大切さやよりよい学校のあり方を確かめる場所であるべきです。多くの人がそういう想いで大川小に向き合えるようにしたいです。小さな命たちが,未来のために大切な意味を持てたとき,私たちの向かう未来で,子ども達がニコニコして待っている気がします。









佐藤 敏郎:中学校教諭。大川小学校6年生(当時)の次女が犠牲になる。
小さな命の意味を考える会代表