語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

山田 葉子さん 女性

私の3.11

2011年3月11日…


あの日は、いつもと違う時間の流れだった…
私の住んでいたのは、宮城県石巻市渡波地区…

私はこの地区で生まれ育ち、この時は実家で母と兄と暮らしていました。
実家は開業50年になる寿司屋。

私はそこを手伝いながら、夜には少し離れたコンビニで働いていた。
母は70代…
兄は40代後半で数年前から人工透析を週3回行っていた。

この日も透析の日で、予定通りであれば1時半には帰ってくる予定でした…
でも、機械の不具合ということで、「少し遅れます」と透析室から午前中に連絡があり、終わったら迎えに行くことになった…

普段なら私が行くのだが、その日は確定申告に行くことになっていたので、母が迎えに行くことになった。
自宅に戻ってきたのが14時15分頃だっただろうか…
帰ってきたときの「腹減った…」の兄の言葉と、「ベニマルに寄りたかったのに…」という母の言葉…

そんな言葉を聞きながら税務署に持っていく書類の最終チェックをする私…
当たり前の風景…
出がけに母が「黒豆でご飯を炊いたけど、社長(取引先の葬儀屋さん)に持っていく?」と、聞いてきた。
車で数分の距離だし、行きながら届けようとパックに詰めて家を出た。
その時間、14時30分頃…


葬儀屋さんに着き、建物奥の事務所にいた社長の奥さんや従業員と、持ってきた黒豆ご飯を渡しながら前日の地震の事を話していた時だった…

「ん?また地震??」私は、その程度に感じて、近くにあった花瓶を1~2m先の台所のシンクへ移動させもといた場所に戻ろうとした瞬間、立っていられないくらいの揺れが襲ってきた!!
奥さんや従業員は外へ逃げた後だった…

私が数秒前に立っていた台所のシンクには、後ろにあった食器棚がものすごい音で倒れてきた!!
さっきまで、みんながいた事務所内は大きな印刷機や机が、音を立てながら移動しまくっている…右へ左へ、奥へ手前へ…

私は立っていられなかったが支えになるものもなく、座っているだけでは自分の身体もどこへ行くかわからないくらいの揺れだった…
私の支えになったのは、足元に車輪がついた「可動式のテーブル」だった…
しゃがんでそのテーブルの足を後ろ手に持ち、壁に押し付けて揺れが収まってくれるのをただただ待ち続けた…

立っていられない揺れは初めての経験だった…
これまで、先の宮城県沖地震、内陸地震と何度も震度5~6の地震は経験しているし、その揺れの中を階段も降りたり出来たけど、今回は自分の身体を持って行かれない事に集中していないと、どこかに持っていかれそうだった…

何度か揺れ方が変わっていく中で、自分の逃げ場がどんどんなくなっていく…
テーブルの脇にあった木製のロッカーも倒れて通路はふさがれている…
非常口は先ほどの台所の食器棚の後…
あとは、奥のトイレの窓だがその外はお墓…



何とかおかれている状況を確認しようと、自分を落ち着かせてみる…
今の揺れで建物は大丈夫だろうか?
鉄骨3階建て…
上を見てみる…

とりあえず、ひびは入っていないし、壊れてもいないようだ…
阪神大震災のような建物倒壊は大丈夫そうだ…これ以上大きな揺れさえ来なければ…
奥さんたちは?
外側へ目線を向けてみる…

入り口のドアにつかまったまま揺れと一緒に体が行ったり来たりしている…
周りはガラスが壊れたているのがわかった…
奥さんが「葉子ちゃん、大丈夫??」と気遣ってくれる。

「大丈夫!!」と答えては見た…
早く、揺れが収まってほしい!!
そう思っていた時に、揺れが収まった。

恐る恐る立ち上がってみる…
揺れ出さないのを確認し、脱出を試みる…
倒れたロッカーの下はくぐれない…
ロッカーの裏側を歩かなくてはいけないが、私の体重で貫けないだろうか?

足を怪我したらどうしよう…
恐る恐る真ん中の桟に足をかけてみる。何とか大丈夫そうだ…
ゆっくり、しゃがんだまま3本のロッカーを越えて、やっと通路にたどり着いた。
その時の入り口付近の店舗や、表の事務所はめちゃくちゃだった!!
とりあえず、実家に戻って避難することを奥さんたちに伝え、奥さんたちにも気を付けるようにいい、実家に向かう…

車に乗り込むときには、車の前に脇の家の瓦が落ちていた…
いつもの道はお墓の倒壊でふさがれていた…
方向変換をして家に向かう…
普通なら車で3分くらい…
途中の道に電信柱が倒れて、電線が垂れ下がっていた場所があり、交互通行になっていた…いつもより時間がかかった。

自宅に着くと、近所の人達は避難しようと右往左往している…
ちょうど兄が外に出てきた。
手には「父の遺影」と「懐中電灯」を持って。
私の顔を見ると「おう、葉子、帰ってきたが!!石巻さ行ってねがったのが?おっきなのくっと!!早くにげっと」と…

隣の美容室のお姉さんは「葉子ちゃん、どうすっぺ…家さかえっと思うんだけど…」と言ってきた。
お姉さんの家は東松島市の沿岸に位置する「大曲」…
家に帰るには沿岸部を通っていくルートだ…
「だめだ!!大津波が来るって言ってんのに大曲さ帰るなんて…とりあえず避難所さ逃げろ!!」「どこの避難所さ?」
「渡波小学校が指定避難所だから渡波小学校さ逃げろ!!私達もそごさいくがら」って、やり取りしていたら、母も外に出てきた。

手にはいつも持っている店の大事な物が入った「バック」と「父の位牌」そして、「手回し式の懐中電灯」を持って…
「葉子、いがった、石巻さいってねがったんだ…、早くにげっと」と言ってきた。
「ちょっと待って、バック持ってくっがら。隣のおばちゃんは?いねのが?」と聞いたら、「わがんね」とのことだったので、「警報がわがってねーがもしんねーがら、声かげでこい。一緒に連れて避難すっがら」と言って、いったん自宅の2階の部屋へ入ってみる…
めちゃくちゃだった…

とりあえず、何があるかわからないが、空のバックを1つ持った。
この時、買い置きしていたものを持つという意識はなかった…
車に戻ると母と兄が乗っていた。
隣のおばちゃんの事を母に確認すると、家にはいたけど何があったかわかっていない様子だったと…

車を隣の家に横付けしおばちゃんに声をかけ、一緒に避難することに…
80代の軽い認知症…
1人には出来なかった…
避難所へは先ほどとは違う道を通った。
通学路になっている歩道のある道を選んだ。
学校手前まで行ったとき、国道を渡る手前で渋滞していた…
学校に子供を迎えに来た人たちの車だった…
その車の中で余震を経験する…
車の中ではラジオが「大津波が来ます!!高台へ避難してください!!海岸には近づかないでください!!」と流れ続けている…

母が、車を降りて歩こうか?といった。
車をよける場所もないので、「もう少し待って。対向車が切れたらいげっから!!」といったあと、すぐに車を動かせた。
後から分かったことだが、この時に女川には津波が来ていた…



学校の校門で3人を降ろし、地震を経験した葬儀社がすぐそばにあるので、その駐車場に車を置いてきた。
学校に戻ると、避難してきた人たちが校舎の前に立っていた。
みんな、ほんとに津波が来るのかと不安そうだった…
そんな時、父方の親せきのおばさん2人に声をかけられた。
2人とも家族と連絡が取れないと、不安になっている…
2人とも携帯も持っていない…
代わりにかけるがつながるはずもない…

2人の自宅は学校を挟んで右・左…
このままだと、2人とも家に様子を見に行きそうな雰囲気…
母たちの居場所を確認し、私が行くことに決めた!!
その時間15時40分頃…
体育館から近い裏口からまずは行ってみることに…
出たところで従妹と会え、避難所におばあちゃんがいることを伝え、ぐるっとまわり反対側のいとこの家へ。

ちょうど従妹の奥さんが帰ってきたところだったので、おばちゃんたちは避難所にいるから、早く非難するように伝え避難所へ戻ろうとした時に、国道を消防車が「津波来たぞ~~!!たがいどこさあがれ~~」と叫んでいる…
「どごっさたかいどごあんのや?」って国道を振り向いたら、300Mくらい離れているガソリンスタンドの看板に下から白いものが見え隠れしている…
上から降っているのは「雪…」下から上がっているのは…?と一瞬思ったが「津波」のしぶきと気づく!!
必死で走った!!
国道沿いのフェンスを越えようかと一瞬悩んだが、普段こんなに高いところを上ったことがない!!走った方が早い!!とにかく後ろを振り向かずに走って校門をくぐった…
まだ、校舎の前には津波が来てることに気付かずに立っている人が多かった…
走りながら「津波来たど~~」「たげどこさあがれ~~」と声をかける…
「津波ってや??」「たげどごって??」という声が聞こえる…
「スタンド越えだがら、あがれっどこまであがれ~~」と騒ぎながら、母たちがいる体育館へ…
体育館でも駄目だと思い、校舎へ移動させようと思ったが、体育館について外を見た時には、外は海になっていました…



こうして私の避難生活が始まりました…