語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

菊池 敏夫さん 男性

『災害は、想定外が基本です。』


亘理町民ボランティア


震災語り部の会 会長 菊池敏夫


 3月11日、あの日の出来事を思い浮かべると、今でも背筋が寒くなります。
 特に、防災訓練や会議の席で震災の様子が話題になると、その夜半は決まってうなされて飛び起きてしまい、当然、翌日は睡眠不足になることが多い。普段は何事もなく仕事や生活ができており、無理に震災と結びつける意識はないのに。


 あの日はとても穏やかな日でした。町内の中学校では卒業式が行われ、昼過ぎには卒業生の集団が分厚いアルバムと賞状筒を持って笑い声と大きな話し声で私が勤務する事務所の前を通り過ぎて行きました。仕事をしている私たちも晴れやかな気分になったことを思い出します。


 3時少し前、携帯電話の緊急地震速報がけたたましく鳴り響き、『お!地震だ!大っきいど!!』数秒後には建物全体がブランコに乗っているような大きな揺れになりました。なかなか収まらず、むしろ、益々大きくなったと感じました。他の職員は外に脱出しましたが、私は床の上を東西に動き始めたコピー機が壁にぶつかって壊れないように必死で抑えていました。
 『震源地は海だ。』今思い出すと、なぜあの時冷静で客観的な自分でいられたのか不思議に思います。いや、あまりのショックに冷静な振りをしていただけかもしれません。長かった。本当に長かった。一度収まりかけたのにさらに大きな揺れになって。2回目が特に長かった。ようやく揺れが収まり、大きなため息をしながら周囲を見回すとテレビが台から転げ落ちているだけで机上の書類やパソコンは意外なことに無事でした。間もなく防災無線放送で津波警報と避難指示が出され、地区住民が避難を開始しました。


 住民の避難場所は行政区毎に指定されています。3階建ての中学校と小学校の2か所ですが『鳥の海と阿武隈川の水が引いたから大津波が来る』という情報が広まり、内陸方向に向かって車輛での避難が始まり主要の幹線道路は大渋滞です。


 後になって判明したことですが、道路のマンホールが飛び上がったり液状化で冠水した場所があり渋滞に拍車をかけたそうです。防災訓練のたびに車輛での避難と避難経路の分散案が出たものの改善されず震災を迎えてしまった。・・。無念の極みです。


 大地震から30分ほど過ぎた頃、私の居住する行政区長から避難確認と避難指示の手助けを求められ、2人で行政区に徒歩で向かいました。今考えると、なんと無謀な行動だったでしょうか。冷や汗をかきます。途中、内陸側に隣接する行政区に食料品と雑貨なら何でも扱うKマートという小さなスーパーがあります。同級生のM君が経営していました。避難を促しましたが、床の上は棚から落ちて割れたガラスの破片や商品が散乱して大変な状況でした。


 声を懸けたものの片づけに専念するM君を見て強い避難指示を出せませんでした。何時まで経っても後悔の念が疼きます。行政区内でも、まだ避難していない方や避難途中の方々に声がけをし、車での避難準備をしている家族を手伝ったりしました。その時は自分自身の行動の無謀さに気づいていないどころか『荒浜には津波は来ない』という思い込みと『来たって大したことはない』という甘い甘い自己判断が行動の基準になっていました。


 4時近くになって、たまたま最終巡回の行政区の消防車に出会い、運転席から『いつまで何してんだ。そこまで10メートルの大津波が来てるってば。さっさど後ろにすがれ。』と怒鳴られて消防車の両側にぶら下がった区長と私。 恥ずかしい話ですがそれでも半信半疑で『大袈裟だっちゃ』と深刻な状況を全く理解していなかった。『皆さん、避難しましたかねえ。』などとまるで防災訓練の延長線のように。緊急事態が背中まで迫っているというのに。


 事務所に戻り、確認のために屋上によじ登った。松林の向こうに太平洋が見えました。なぜか白波が横に2本走っています。『ん?。何んだあれは?。』上の白波の上空には薄い白いレースのカーテンのような飛沫が。やがて白波が松林に近づくと白い飛沫が茶色のカーテンになり、程なく松林を飲み込んだ。近隣の住宅も波間に消えた。一呼吸の後、私の地区で家屋の屋根が動いている。1つや2つではない。行政区の全部の家屋が流されているのだ。これはただ事ではない。ようやく大津波が襲ってきたことを理解した。膝が小刻みに震え『そんな。そんな。嘘だろ?嘘だろ?』やがて、家屋や家財が黒い濁流となって西の方向に流れ去った。しかも車に乗った人も一緒に・・・。何もできない自分を情けなく思いながら、ただ茫然と見ていることしかできなかった。


 私はたった5分の差で命を拾った。あの時、消防車に出会わなかったらと思うと目頭が熱くなる。『命を拾ったのは、ただ、運が良かったから。運だけです。本当にこれでいいのだろうか。』自問自答するが答えを出せないでいる。


 今は、防災意識と避難行動の判断基準をしっかりと後世に語り継ぐことが命を拾った者の務めだと感じている。尊い命を亡くされた方々にご冥福を祈ることはもちろんですが、荒浜地区ではご親族や友人知人を亡くされた方々、経済的に大きな打撃を受けた方々を含めると無傷の人はいません。


 『災害は、想定外が基本』です。若い世代に同じ悲しみを与えてはいけない。だからこそ、災害の悲惨さと正しい防災減災の理念を語り継がねばと改めて心に刻んでいます。