語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

吉田 まさえさん 女性

あの日あの時その後


吉田 まさえ


 私の家は町から約6キロ、車で10分位の山沿いにあります。職場は気仙沼魚市場向い大型マグロ漁船が停泊する観光桟橋「海の道」を挟んでリサイクルショップがあり、あの時、お店にはフイリピン女性のお客様と2人きりでした。私は咄嗟にお客様を守る使命感にさとされ、戸惑いもなく駐車場に連れ出した。女性はあまりの恐怖に脅え、私は、震える体を抱きしめ「大丈夫だから」と声を掛け安堵させた。同僚男性に女性の安全確保をお願いした私は、店内に入ろうとしたが、扉と駐車場はものすごい段差がついていた。全体が棚から落下した商品で散乱していた中、車の鍵を取りに行くと机の下に店長と同僚男性が潜り込んでいた。私はその時は落ち着いて車を確認し、車に乗ると同時に焦りを感じたが、車で逃げる決意をした。


 


 通勤道路は渋滞してたが、目の前にホテル観洋さんへ逃げた。ホテルでもお客様の迷惑のかからない安全な場所を選んで車を止めた時、津波が街を襲いました。ホテルには大勢の方々が避難しており、ある方がまだこれ以上の大きな地震と津波が来たらここの駐車場でも危ないので、もうひとつ上の駐車所に避難しましょうと話していた。上の駐車場に行くと、寒さの中、幼稚園の子供たちが先生のお話を聞きながら怖さと寒さで震えていた。その内に子供たちの姿は見えなくなり胸を撫で下ろす。寒さも大分増しており、ホテルでは、お菓子、おにぎりを配っていた。ふと気付くと辺りは薄暗くなり、心細さを感じておりました。


 


 そんな時、そばにいた女性が家に帰りたいと話し声が聞こえたので一緒に帰りませんかと声掛け、雪もちらつく中歩き始めた。大道路に出ると瓦礫が山に積みに重なりそれを跨ぎながら歩くと警察がいて、これ以上動かないで下さいと話された。この上は避難所になりますと。


 


 避難所には病院の患者とマスクを掛けた方々で私達の入る隙は無い位でした。私達は家があるのでひとまず寒い中、外で様子を見ていた。だが辺りはもう暗闇で足場も悪くなるばかりなので又歩き始めた。次の大道路に出た先は、まさかここまで瓦礫が流れ来るとは想像もしない場所まで瓦礫がありました。中には位牌もありその上を跨ぎながら歩いた。今思うと本当に申し訳ない事をしたと後悔しております。相手方の女性はだんな様と連絡が取れて、私を送るからと話して頂いたが、貴女にはお子さんがいるから早く行き来なさいと別れ、2時間かかりようやく自宅の側まで着いた時、町の方を振り返ると空はオレンジに染まり明るく照らしていた。その時は火事だと考える余地もなかつた。


 


 自宅に着くとロウソクの灯りが私を暖かく包みこんでくれた。余震が続く中、情報も無く、そのまま一夜を迎えた。次の日お昼近い頃、同級生が息子さんと来た。古い衣類があったら欲しいと話し、妹の家、私の家、主人も含め全て流されたと放心状態の同級生の顔は見られなかった。暖かいご馳走が彼女への慰めかと思い、食事を差し伸べるが彼女は喉が通らないと口もせず仙台の娘の所へ向かうと話して帰った。その日から絶やさずおにぎりを暖かいタオルと一緒に発泡スチロールの中に入れて、誰が来てもご馳走が出来る様にしていた。私には家、米がある、その時はこれだけあれば十分であった。


 


 日にちが立つにつれ被災された方々の為に役に立つ事がないかと思いが高まり、公民館でおにぎり結びがあると聞き、毎日30分かけ歩いた。そのおにぎりは、海苔、塩、梅干、何も無いただのご飯だけ。それも湯のみ茶碗1杯だけだったが、せめて形だけでも整える。後で避難所の方から聞くと一家で1個のおにぎりを4等分して食べたが、とても美味しく頂いたと聞いた時は嬉しく思わず笑みを浮かべた。


 


 6月からは復興の一環とし採用された「遺体安置所」でした。ご遺体は約50体位あり、中にはさまざまに変形したご遺体ばかり。勤務初日からお棺の中にドライアイスを入れる作業からでしたが、私は胸をドキドキさせながら仕事を手にする。自分に言い聞かせた言葉は、「私には命がある」でした。この人達はもがき苦しんで、亡くなられたと思いを込め1体1体に毎日ドライアイスを入れ、お線香は絶やさず燃やした。中にはお花も届けられ、それを花束に作り1体1体お棺の上置き早く家族の元へと願いながら合掌していました。


 


 ところが、ある1体のお棺から黒茶色の水が流れ出で、あまりにも激しい汚れを見かね警察の方が火葬にしましょうかと。その時、来た家族は、自分の子供と思い2組の家族が来ました。ひと家族は若い夫婦、白と黒の可愛いドレス、もうひと家族は着なれた浴衣を手に立ち会う。警察の方はどちらのお子さんか分かりませんがいいですかと、念を押される、その姿は、寂しく私の目に焼き付く。気になるので数日後、警察の方から聞いてみると、なんと4歳の女の子でした。遺体も七月になると気温も高くなり腐敗の臭いもきつく、瓦礫の中、ヘドロの中の遺体は、ものすごい臭いでした。でも私は生かされていると思えば耐えることが出来ました。そのころ気仙沼市では土葬していたご遺体の堀りお越しが始まる。私達以上に大変な仕事を市役所の方が、最初から最後まで掘り起こしされたと聞いた時は素晴らしい方だと思うとともに感謝した。お棺の方も不足になり半端物で工夫しながら作業する。どのご遺体にも平等に行く様、心がけながら飾り付け内張りした。


 


 震災当時はものすごく寒く、今度は7月なると暑く、臭いは増す。加工会社から出た腐敗物一般家庭から出た腐敗物なのか、大きなハエが大量に発生し、市内から約8キロから9キロ離れている遺体安置所までそのハエが飛んで来て、汚れたお棺に卵を産みつける。お棺は取り替える事も出来ない、私達はそのお棺を一生懸命1日でも早く家族の元と願いながら綺麗にふき取りました。


 


 私はよく小さい頃、祖父母から「死人に口無し」と聞いておりましたが、私には亡くなれた方々から色々な事を教えられました。遺体安置所で仕事をさせて頂いた事、本当に感謝致しております。


 


 10月になるとご遺体も少なくなり警察へと移動となりました。私は気仙沼市社会福祉協議会サポートセンターに勤務、仮設住宅訪問担当、住民の方々の健康状態、心のケアを一軒一軒訪問する。当時住民の方々は避難所生活で疲れていたせいか、心が閉ざされ動揺が隠せず、私達に八つ当たりする人、男性はお酒に溺れ外に一歩も出ず私達を拒否し話すことなく精神病院に入院する人、孤独死する人など。一家5人が亡くなられ小学5年生女子の祖父からの相談は、「孫が学校に行かないので困る、本人は学校に行くとお腹がいたくなり気持ちが悪くなるから行きたくない」聞いてみると最愛のお母さん、祖母、可愛い妹弟を亡くされて、部屋には5人の写真が飾られていた。残された家族は、義父、祖父でした。女子はどんなに心に痛みをもっていたのか、言葉では上手に出来ず体で現したのでしょう。


 


 隣の仮設に伺えば老夫婦は仮設からあの世に行きたくないねと訪問する度話す。皆さんから聞く言葉は計り知れない事ばかりで、慰めの言葉は通用しませんでした。ひたすら聞く事で心を開かせ、少しでも和ませた。


 


 月日が経つにつれ住民にも変化が見え、明るく心も開く様になり、集会所にも自ら来て和やかなムードが続く中で寂しい顔していた人がいた。声を掛ると、実は今まで親子2世帯と孫達で暮らしていたが新築の話を持ち出すと若い人達は流された所には戻りたくない、私達は戻りたいと、意見の違いでなかなかまとまらず、公営住宅に入ることにしましたと寂しそうに話しする方、あの時助けてあげることが出来ないことを悔やむ人、孤独になり行き場も無いと、ぼやく人、津波は一瞬に命、財産、心も奪う。気仙沼市ではこの様なお年寄りが多くいます。今、年老いて不憫に思えてなりません。


 


私達は聞き取りするといろんな体験を聞く事が出来ました。その中でも私の脳裏から離れない話を何点か紹介します。


 


1、洋品店経営をしていた。その時店には5人程お客様いた。あまりの揺れなので外に様子をみていたら津波はすぐ側まで来ていた。裏の土手にお婆さんの手を取り逃げたが波はそこまで来ていた。それを見ていた旦那がその手を離さないとおまえが流される早く手を離せ、強く握り締めていた手を離したことが今でも悔しさで罪悪感に閉ざされているような気がすると話した。


 


2、菓子店舗3ヶ所経営社長がその日、仙台に出張で帰る時の出来事でした。帰ろうとしていたが交通手段はなく、どうするする事も出来ず一夜を暗闇のホテルに駆け込み過ごした。夜明けとともにタクシーで自宅に着いた時はすでに跡形もなく、年老いた母と家族、従業員の安否を確認に歩く。従業員全員無事だが家族とは連絡とれずにいたら息子は大丈夫だが母、娘が流されたと情報。10日目で変わり果てた母、娘に再会した時はとても受け入れる事が出来なかった。その娘は旦那の修行で東京から戻り3年目で女孫2人、小学3年生と6年生。店の手伝いをしながら年老いた93歳母を面倒見ていた。私達も安心して出張ができ、全て任せていた。その矢先のこと。息子は虚弱なので頼ることは難しい。だから娘を頼っていた。その気力も無くなるし年齢70歳も過ぎているから店全部やめる覚悟でした。落ち着きが戻りつつある頃、従業員一丸の姿に勇気づけられ、店を再開することになりましたと嬉しいお話も聞けた。ある方から聞くと、お婆ちゃんが忘れ物があると戻り、住まいは2階でした。上がるにも時間がかかり逃げたには逃げたのですが、途中で近くの千葉一商事さんの車に同乗したがそのまま帰へらぬ人となる。千葉一商事さんでは一家5名が亡くなる。発見場所は自宅から約700メーター先ホテルの片隅、気仙沼市でも一番死者が多い200名の場所、当時は遺体が見つかるだけでもいいほうでした。その娘さんは警察の手により顔は修復されて、もとの可愛いい娘さんに。私も火葬に行きました。焼き場の扉が閉じた瞬間ドーンと音した。泣いていた私も思わず祭壇のコップの水を見たが揺れていない。不思議に気付いた葬儀屋の男性も裏に行き様子見に行くが、異変の顔ではない、なぜと脳裏を駆け巡る、その時、喪主が挨拶の中で娘の卒業記念に旅行を計画していたと聞いたとき、そのためにどんなに悔しく情けなく音に現したのだろうと私は感じた。


 


その後、自宅へ行く機会があり、私も同じ年の娘が居るので話の中で、せめて娘さんだけでも、逃げればと慰めの言葉のつもりで話すと、奥さんはいいです娘だけ生き残れば、一生十字架を背負い生きねばならないのですと、聴いたときには涙がこぼれ、何でこの様な考えがもてるのかと、あれほど娘さんを頼りにしていたのに、ここで人の心模様を知ることが出来た。数ヶ月後また話をする機会が有り話を聞くと、こんどは、嫁ぎ先の両親の配慮があり我が家の墓地に娘が入っています、嫁ぎ先のお父さん、お母さん、どちらかが亡くなれた時返して下さいと話されました、それまではお婆ちゃんと一緒です。孫達は孫達でパパのいる所ではママの話は無いそうです。今は元気で学校に通学しています。震災前から比べると、体全体がやつれた奥様もいくらか顔がふっくらとなり笑顔が見えてきました。


 


3、重機会社の社長婦人が山沿いにある自宅から震えた声でこれから会社に行きますと連絡が有り、社長は従業員と娘を避難させ、自分だけ奥さんを待っていたが、津波がすぐ近場まで来ていたことを知り、自分も危うく、高台のビルに逃げた。その時奥さんは会社の方に居たそうです。ほんの数秒の差で、会うことが出来できず、社長さんは避難ビルに行くと、大勢のお年寄り、小さな子供達が避難していた。夜になりお腹がすく子供お年寄りにビルの冷蔵庫から食べ物を取り出し世話をする。一夜を寒い中忍んで、夜明けとともに自衛隊のヘリコプターが来てお年寄り子供達を避難所へ。社長は濡れたまま瓦礫を渡り歩きどうにか一時間位かかり親戚にたどり着いて一息つき、奥さんを探し回るが、姿は見えない。毎日毎日足を棒にしながら捜しても遺体は浮かぶこと無く葬儀をする。8ヶ月目ようやく会えた。社長の胸の中は誰よりも痛みはひどく、実は会社を若い頃奥さんと2人で立ち上げた会社だから余計たまらないのです。社長はいまだに津波の話をするとぽろりぽろり涙を流がしているそうです。


 


 こうして皆さんからの情報を聞き取ることが出来、又いろいろな経験もさせて頂き、亡くなれた方には大変申し訳ございませんが、これを誰かの役にたてれば亡くなれた方の供養になるかと思い、語り部を始めました。私自身は震災を受けてはいませんが、お客様を現場に案内し今まで経験した事と命の大切さを心込めて話すと、身を乗り出し、涙を流しながら聞いてくれます。励ましの手紙を頂き心の支えにしております。あの千年に一度の震災を風化させない為にも、体の続く限り頑張りたいと思う気持ちで一杯です。全国の皆さんからご支援、励ましを頂き、有り難うございました。感謝を致しております。