語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

阿部 忠直さん 男性

 平成23年3月11日、私は市内の体育館で、テニス仲間と週一回のプレーを楽しんでいた。



 午後2時45分頃経験したことのない、突き上げるような揺れが3度程襲い、その後継続的に激しい揺れが続き、館内は大パニック、仲間数人とトイレに避難、あまりにも長い揺れに居たたまれず、合間を見て外に飛び出した。周囲の物全てが揺れて、あたかも「大時化」の中で船に乗っているかのようであった。5〜6分位揺れていたであろうか、揺れが収まったのを期に後片づけをして、帰路についたのが午後3時頃だった。すぐにラジオ放送で地震の情報を得る。すると今まで耳にした事のない「大津波警報」を伝えるアナウンサーの、少しうわずった声に「もしかすると只ならぬ事が起こるかも」と一瞬私の脳裏を横切ったのを覚えている。


 心配した渋滞に巻き込まれる事もなく、自宅に戻ったのが3時25分頃、自宅に損傷は見られず、「さすが親父が手掛けた家」と (父親は大工を生業としていた) 妙に自慢げになったのを覚えている。家中を見回り気が付くと女房殿の姿が見えない。一旦外に出ると居合わせた人から「奥さん後ろの家でお年寄りの避難のお手伝いしているよ」と聞いて駆けつけると「手伝って」の声に「着替えて来るから」と急いで自宅に戻り玄関に入ろうとしたまさにその時、巡回していた消防車の「逃げろ・・逃げろ」の声に、ふと河川の方に目を向けると、真っ黒な津波が粉塵を伴って堤防を乗り越え迫って来ていた。距離は僅か30メートル、急いで車に飛び乗り危うく難を逃れた。しかし避難途中逃げ遅れたであろう女房殿の事を想うと胸が痛んだ。落ち着いてから午後4時半頃、水浸しになった瓦磯の中で女房殿とお年寄り二人の無事を確認、急いで消防団に救助を依頼、1人を搬送して頂き、残りの1人と女房殿は諸般の事情により翌朝まで近所の家の2階で一夜を明かした。


 後日談として女房殿が私に話してくれたのが次のような内容である。「地震の揺れが治まり、すぐにガス、電気の元栓を切り、必要最小限の荷物を持って、近所のお年寄りの手助けに向かった。一人を車に乗せて避難を終え別の2人を車に乗せて出発しようとした時津波に襲われ、車ごと流され死を覚悟した。運よく流れ着いた場所が損傷の少ない家の庭で、2階に避難して事なきを得た。九死に一生の思いだった。


 午後5時頃発生した火災が恐怖心を煽り、朝になって下火になるまでは不安この上ない状況だった」との事であった。瓦磯の山と化した道路の合間をぬって、女房殿に再開出来たのは12日の早朝であった。付近の家々は津波により瓦磯の山と化し見る影もなく、我が家も家としての形は呈していたものの、修繕して住める状態ではなかった。地震には耐えた我が家も津波には・・・と、茫然としてしばし廃墟に佇んでいたが、一晩中女房殿と一緒に避難していたお年寄りが無事だったのは何よりも嬉しい限りであった(しかし前日に救助されたお年寄りが2日後に低体温症により亡くなったとの訃報を聞き心を痛めた)。



 その後地元の中学校に避難、地元の住民と合流、ホッとしたのもつかの間、今度は原発事故による避難を余儀なくされ、いわき市の中央部にある高校で50日程度の避難生活を過ごす事になる。



 息子、孫は遠く離れた千葉県に避難、離れ離れの生活は10月まで続いた。それでも私達家族はまだ幸せなのかも知れない。帰還のこと、今後の生活の場の事等で意見を異にして、家庭崩壊に至った方々の事。何時帰還できるのか全く見通しの立たない原発周辺の方々の心情を想うと察するに余りある。


 この大震災は多くの先輩、仲間を犠牲にした。竹馬の友であり地域の発展を目指して共に歩んできた彼の死は大きな痛手である。


 私は震災後早々に立ち上げた復興委員会の一メンバーとして地域復興に携わっており、かたわらに震災語り部として日々を過ごしております。あの忌わしい思い出したくもない大震災の事を人々に語り継ぐことにより、多くの方々に理解して頂き決して風化させてはいけないとの信念を持って。