語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

田澤 憲郎さん 男性

  わが大熊町は、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0、最大震度6強の地震、最大級9.3m以上の津波の被害に加え、3月12日午後3時36分の東京電力(株)福島第一原子力発電所1号機の水素爆発を始め1~3号機のメルトダウンが発表されるなど「原発事故」を背負い、風評被害と進むのです。


 3月11日午後2時46分あの大地震に襲われました。自宅の居間にいた私は、遠くからゴーという音が響き「グラグラ」小さなゆれが突然大きくなり、慌てて外にでました。携帯電話で地震情報がなりましたが、その時には激しいゆれが来ていました。一回目は横揺れ、2回目は縦揺れで、地面から突き上げるように来ました。私は立っていられず周りの電柱等が倒れてきても良い場所を見つけ座りました。隣の家の屋根瓦がガラガラと崩れ落ち、自分の家の瓦も落ち、庭の灯籠も倒れ、駐車していた自動車もグラグラと波うち倒れるかのように揺れていました。地震後、家に入ると足の置く所もなく、滅茶苦茶に物が散乱し、これが私の家かと思うほど、初めて見る光景でした。私は孫を迎えに行きましたが、通学路にある大谷石の堀は崩れて倒れており、住宅の被害、下水道管のマンホールの隆起、それに伴う道路の陥没、家屋の倒壊などを目のあたりにして、被害の大きさを知りました。海岸部では、午後3時42分頃大津波が襲われ48世帯、死者11名、7歳の小さな女の子1人が今だに行方不明です。多くの人は高台へと避難しましたが、犠牲者の多くは、なんらかの理由で、もう一度家に戻った方がドス黒い津波に一気にのまれ犠牲になりました。道路のガードレールは津波で曲がり、田んぼには流された自動車が何台も転がり、また団子のようにグシャグシャになっており、津波で家屋の土台までも流されていました。あのきれいな海岸、砂浜、防波堤・・・なにもありません。見渡す限りの荒涼とした風景が広がっていました。私たちは自宅でわずかなスペースを作り、3月の寒い夜、余震が来るたびに外で脅えながら過ごしました。暖房もなく3月の小雪ちらつく寒い夜を思い出します。


 翌日、状況を全く知らされていないまま、全町民避難ということで、私達は着の身着のままで、午前6時30分集合場所に行き、待機し、正午にようやく避難バスで、西へ西へと避難所を求める移動が始まりました。国道288号線は避難者の車両で大渋滞が出来、進むことが出来なかったのを思い出します。避難所を求め5箇所立ち寄るも「もうここはいっぱいだから、あっちに行ってくれ」と言われながらようやく午後5時過ぎ、バス1台54名でたどり着くことが出来ました。私は朝から一杯の水も、一口の食べ物も口に出来ませんでした。避難所では自分の家から持ち寄った炊飯器で炊いていただいた1個の「おにぎり」が今でも忘れられません。1人毛布1枚をいただき、仕切りのない場所で身体をくるみ、皆んなで休みましたが、ねむることが出来ませんでした。


 大熊町は当初10km圏内指示だったのが、夕方7時位に20km圏内の避難指示が出ました。その時「20km圏内」に該当した、田村市都路にある体育館に最初に避難した住民は大変でした。前日は津波で大熊の体育館に避難して、翌日は都路で落ち着いたあと、さらに避難になったからです。それから三春町、郡山市に寄って、夜中まで避難所をさがしさまよっていました。疲労困ぱいした住民から「俺たちを殺すのか」という声も出たそうですから・・・。まさか大熊町民の避難者を受け入れした田村市の都路住民も避難するとは考えていなかったでしょう。


 3月14日午後4時避難所より妻の実家である飯舘村に移動しましたが、道路は渋滞で、ガソリンは1回1,000円または10ℓまで給油。食料品は買い占の状態でした。情報が入らないまま、飯舘村に避難指示が出され、19日栃木県鹿沼市の体育館に避難となりました。


 午後1時10分飯舘村を第1次避難者314名が出発し、東北道福島松川インターにてスクリーリングを受け、午後7時15分に着き、毛布1人2枚頂き仕切りのない体育館に居をかまえました。


 その後飯舘村が計画的避難区域に指定され、30日鹿沼避難所が閉鎖に決定し、30日の退所式をまたずに4月29日午前10時大熊町の役場機能のある福島県会津方部へと移動しました。第2次避難所は、福島県喜多方市熱塩温泉山形屋に午後5時頃到着しました。


 7月15日会津若松市の応急仮設住宅が完成したので入居して現在に至っております。


 私の母は、介護老人保健施設に入所していました。震災から3日後の14日午前10時30分頃自衛隊の避難バスで、受け入れ先を探しながら、南相馬市、福島市、郡山市、いわき市へと移動し、いわき市の体育館に午後8時頃たどり着きました。避難バスでは、入所者が死亡したり、体育館内で死亡したそうです。


「避難者はみな高齢で、体育館の避難所では治療ができない。医療機関を探してほしい」とのことで、各病院と連絡を取ったそうです。翌15日いわき市の避難所を出て、会津若松市の病院に午後5時頃患者や入所者だけを入院させて行ったそうです。3月15日は母の91歳の誕生日でした。私が母の居場所がわかり再会をしたのは、2011年5月1日、実に53日ぶりでした。


 これが私の震災の体験ですが、避難所が工場のコンクリートの所や、食べ物や、風呂、トイレ、洗濯、飲み水等毎日生きて行く上で苦難をしてきた方が大勢いました。避難生活でストレス等が原因で死亡して行った方も沢山いました。本当につらく苦しい避難生活を今も続けております。


 今われわれは、避難住民ではなく、ふるさとがあっても、ふるさとに帰れない「難民」です。地震、津波だけならば、すぐに復旧、復興ができたはずです。原子力災害さえなければ・・・。もうとっくに新しい生活が出来ているはずです。現在も大熊町の96パーセントがいまだ「帰還困難区域」で自由に立ち入ることもできず、あの3月11日の震災時となんにも変わっていません。


 今までの穏やかな暮らし、なんの変化のない一日一日が、いかに幸せで、大切なことだったろうかと思い出します。


 家族を想い、友人を想い、愛する人を想い、そして自分が生きているということを想って流されてた、とてつもない量の涙があった事実を私たちは絶対忘れてはならない。こんな思いはもう誰にもさせたくありません。それが私の願いです。


  東日本大震災と原子力発電所の事故の悲劇を風化させることなく、後世に伝えていかなければならないと強く感じています。


大熊町      
田澤 憲郎