語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

横山 幸雄さん 男性

東日本大震災 津波体験談


「心は流されない」


平成23年3月11日
横山 幸雄


  東日本大震災から3年7ヶ月が過ぎました。大変な震災に今でも身震いを感じるのは私一人ではないと思います、今回の津波は、今までに無い大変な大きな津波でした。釜石市老連事務所は、海員会館にあり鉄筋コンクリート造り4階建ての2階です。岸壁から15m位の所に位置し、其の間に高さ2. 5mほどの防波堤があり3月11日(金)午後3時頃、突然地震が発生しました。3分間ほど激しく、弱くを繰り返し揺れました。普通の揺れより激しいと思っていましたが。釜石湾口には世界に誇る、ギネスブックにも登録された、海面下63mから積み上げた岩石のマウント(土手)に7階から8階建てのビルに相当するコンクリートブロックを載せているから、大事は無いだろうと思っておりました。 事務所の電気が消え、1階に下りて岸壁の防波堤の水門を閉めるのを手伝い、自家用車「プリウス、新車1年1万3千キロ」に乗って自宅に向かいました。途中の道路には今までになっかた凹凸が出来ていて普通には走れない状態で、危険を感じながら、即、避難所に向かおうと思いましたが、松原町交差点のR45号を左折したら自宅が見え、お隣には自力避難の出来ない方がと、自宅駐車場に車を入れ、地区民生委員として、お隣の様子を見に行った所、近くの人は避難して、ご主人と娘さんだけで娘さんは「タスケテクダサイ」の連呼です。どうしよう、9番は満員で対応出来ない、救護の電話も不通で致し方なく、「娘さん"津波はてんでんご'と云われているから、あたりを見て行動して、兎に角、誰か探して来るから」と言って自宅に行こうとしました。5.6歩、歩いた所で、川に続く道路の方から「早く逃げて」の声。見ると、おばさん2人が津波の前を走っていて、緩い勾配の国道45号線に上ろうとしていました。私は慌てて0m先の自宅裏(駐車場)から入ろうとしたら。すでに、足元に津波が来ておりました。あっと言う間の出来事でした。私に「声」をかけた2人は暫く消息がわからずやっと判ったのは姉妹で私の知っている方で津波に流されたとの事でした。私は裏戸から入り靴を脱ぎ、戸を閉めて2階に逃げようとした途端「バン」とガラス戸が割れて、一気に水が入って来ました。私は水の勢いに押されて、玄関から外に押し出され、外の門柱を通り過ぎたのは判りましたが、一瞬上が見えない、カーテンのような水に息を吸って潜りましたら気を失い、気が付いて上を見たら「ゴミ」が流れて居るのが見えました。


 「俺は水の中なのだ」と。無我夢中で暴れ、水上に顔を出して呼吸して、辺りを見たら1. 5m程の角材を見つけ、左脇に抱え自宅の方を見たら自宅の2階の床より高い所を流されて居ました。右側は国道で、さっき走ってきた人の道路は川に一直線で、引き潮では危険と考え左に左にと右手で漕ぎながら20m位流されました。その間3回くらい立ち泳ぎで足を引っ張られ潜り、腰を曲げて流れていたら左に電線が見えました。山側に倒れた電柱です。「これだ」と、其の方向に無我夢中で漕ぎました。暫くしてやっと電線を掴み右左と歩むようにして電柱にたどり着きました。電柱はトランスの付いたもので動かず安定しているのが判りましたが、其の上にプレハブの物置が崖崩れ防止のフェンスの上に載っており、危険を感じましたが、この崖崩れ防止の跡は、昭和8年の津波の時、被害に遭った所に土盛りした、土石を取った跡だそうです。私もその様な話を聞いて建てた家でした。電柱の上では寒さと怖さで身震いをしながら流れていく家、車、舟、その他大きな構造物も流され、この世の物すべて流されていく感じでした、アパートの屋根に登っている男の人は見えましたが、人の流れて行くのは見ませんでした。 私は第一波で流され、第一波が全部引かない内に第二波が来たようでした。そしてようやく第二波が引いて、電柱から降りて自宅に向かいました。家内は自宅2階におりました。向かいの奥さんも2階に居て「助けて」と言っています。自宅玄関はガレキの山で裸足の私は近づけません、向かいの家には電柱が倒れていましたので、それをハシゴ替りにして登ろうとしたが、体が重くて登れません。其の時、第3波がやって来ました。浮力を利用して登ろうと電柱にしがみつき少しずつ登りましたが、大きな壁のようなのが電柱に押して来ました、ある程度登った所で右手が抜けなくなり、丁度首まで水につかり。やっとの事で助かりました。右手の甲に6本の釘の跡があり、出血と腫れに驚きました。1ヶ月では治らず完治まで2ヶ月余罹りました。しばらくして若者3人が「助けに来たぞ」と来て、手すりのような物をハシゴ替りにし地面に降り、家内と向かいの奥さんと約500m先の避難所に向かいました。途中、知り合いの方が声を掛けてくれ、「全身ずぶ濡れだ」と言ったら、避難所に着替えを持って来てくれて。下着から全て着替えました。「地獄で仏」とはこの事かと感じました。有難う御座いました。反射式のストーブの前には行けません、担当地区の世話をしたいと、思いましたが、手の痛みと腫れは救急のガーゼ1枚では安心できません。痛みもあり甥が確認に来たので、係り員に申し出て、大平町の妹の家に避難しました。翌12日は大平町から自宅を見て事務所を見回りました、どこもこの世とは思えない状態でした、13日午後大平町内会の方々のお計らいで救急車からヘリを乗り継ぎ松倉グランドえ運ばれました、トリアージの後市民体育館に行きましたこの度の震災では、私は「如何に付き合いの大切さ」を知りました。私はシルバー人材のお世話で釜石市老人クラブ連合会の事務局長を引き受けて1年になろうとした矢先でしたが、東京の全国老人クラブ連合会をはしめ数回各地の老連やその他会場で津波の体験談をしました。「どなたでも2度と被災してはならない」と思います。そんな釜石を作らなければ成らないと思いました、各方面からの沢山のご支援を頂きました。心から厚くお礼申し上げます。普通車、パソコン、軽自動車、各地のお米、衣類、老連の元気袋、支援金等など。私は津波に家も家財も流されました。また知り合いも多数失いました。しかし誰を恨むすべもありません、私の人生の試練であろうと観念し如何なる苦境に遭っても皆さんの「ガンバレ」の声援を思い出し、津波に流されても「心は流されない」をモットーに努力します。ご支援有難う御座いました。


                                   平成26年10月


釜石市浜町を襲い始めた津波避難道路から


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釜石大観音から座礁した外国貨物船


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第1波が引いていく津波 避難道路から


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ユンボの向こうは道路向かいの家 立っているのが自宅


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ユンボの先が自宅お隣に普通車が乗っています


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被災した横山宅 座敷が突き抜けている


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奇跡と云われた鵜住居小学校生と東中学校生と保育園の子供達


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