語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

菅野 クニさん 女性

東日本大震災と東京電力福島第一発電所事故からの教訓

菅野 クニ

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故からの教訓


                         福島県飯舘村 菅野クニ


 私の住んでいた福島県相馬郡飯舘村は東京電力福島第一原子力発電所事故により、事故から1か月以上経った平成23年4月22日に計画的避難区域に指示され、全村避難している村です。我が家は日中のみ立ち入りを許されている居住制限区域内にあり、夫と夫の両親の4人で福島市の郊外に避難しています。この原稿を書いている平成26年12月現在、我が家の住宅周辺の除染がようやく終わり、3年半も住んでいない家屋を住める状態に戻すための知恵を絞っているところです。


 さて、平成23年3月11日当時、夫は自宅から90km離れた福島県中通りの鏡石町内にある福島県立高校の校長をしており3月末に退職する予定で、私は自宅と夫のいる鏡石町とを行ったり来たりしながら引っ越しの段取りをしていたところでした。


 あのとき、私は自宅の2階におり、自宅から37km離れた相馬市にある税務署に確定申告に行くための準備をしておりました。午前中に提出書類の印刷をして午後に税務署に行くという計画でいたらプリンターが不調。何度も何度も紙づまりを起こしてしまい、ようやく提出書類が整ったのが2時40分。それをまとめた直後に異様な地響きというか地鳴りのようなものを感じ、地震がくると思った途端にぐらっぐらっと揺れて、「ちょっと長い地震だな?」という不安と、パソコンが壊れたら困るという気持ちが交錯して、踏ん張って必死になってパソコンを押さえていました。それでも、我が家は棚から少し落下した程度で家屋の破損がなかったために、時計を見て4時までには税務署に行かなければと、急いで車を運転して相馬市に向かいました。普段地震があるとテレビをつけて震源地の確認をするのですが、この時は税務署に行くことの方が最優先でした。後で考えてみると、確定申告は3月15日を過ぎてもできたし、避難者(車)の渋滞に巻き込まれる危険性もあったので外出しないという冷静な判断をする必要があったと反省しました。


 自宅に戻ったのは5時近かったと思います。停電しており、3日間復旧しませんでした。夫の両親は在宅していましたが、いつもの通りに屋外で何やら農作業をしていて、あれほどの地震でも震源地がどこかなど知ろうともせずにいて、停電だとは全く気付いていませんでした。我が家は、夫の両親のガス消し忘れが何度かあったりしていたので、屋根に太陽光パネルを取りつけ、電磁調理器を導入しておりましたので、停電ということは調理ができないということです。すぐに七輪を取り出してお湯を沸かし、夕食の準備をしました。停電でも給湯器には200リットル以上のお湯がありますので、2日くらいは何とかなると考えました。お風呂は、夫のこだわりで薪で沸かす五右衛門風呂ですので、停電でも暖かい風呂に入れました。我が家の飲用水は沢水を利用していますが、あの地震でも水源は壊れず、パイプの破損もなく、いつもの通りに使えました。暖房は、こだわりの炭炬燵で寒さ知らずでした。余震が心配のためにラジオをつけっぱなしで炬燵に寝ました。翌朝の朝食準備中にラジオで、原発周辺の避難指示を聞き、「原発か~。でもここ(飯舘村)は(道のりで)50kmくらい離れているので大丈夫」という安心感がありました。


 困ったのは、携帯ラジオの乾電池予備がなかったこととガソリンが不足したことです。翌日、村内のガソリンスタンドに行ったら10リットルだけの給油。乾電池は品切れ。村にあるスーパーは商品が崩れて営業していませんでした。結局、ラジオは12日の午後からは聞けなくなってしまい、村内にある携帯会社のアンテナも停電のために携帯電話もつながらず完全に情報難民となってしまいました。


 3日目の日曜日、いつもなら2時間30分のところを6時間かかって夜の9時過ぎに夫の校長住宅にたどり着いてテレビをつけると、太平洋岸の津波の様子が目に飛び込んできました。見慣れた相馬市の海岸にも津波が押し寄せた映像に驚き、ようやく地震と津波と福島第一原発一号機の爆発の様子がわかりました。


 東電福島第一原発事故後、15日の夕方には飯舘村の測定点で空間線量1時間あたり44.7マイクロシーベルトのニュースには目と耳を疑いました。翌日も高く、その後の下がり方が他の地域に比べて緩やかで…、結局4月22日に計画的避難区域の指示が出されました。この避難指示による避難を通して、放射線に対する考え方の違いが村民の生き方や人間関係、今まで築いてきたコミュニティまで影響しております。


 今回の東日本大震災と原発事故による長期間の避難を通して教えられたことをまとめてみました。


1 今までの生き方の精算と再生です。災難というよりは「今までと同じ生き方ではまず


いよ」という天からのお知らせだと思いました。


2 正解のない放射能汚染に対する考え方がたくさんある中で、まず常に正しい情報を得る手段をもっていること。これは不要なストレスを受けないためや次の準備をする覚悟を決めるためにも必要だと思います。


3 携帯ラジオは大事な情報源。予備の乾電池は常に用意しておく。マスコミには正しい情報を伝わるような報道をしてほしいとお願いしたいです。(あまりにもあおる報道が多すぎましたので…)


4 行動は冷静に。


5 ガソリンは半分になったら給油する。


6 避難生活は、平常時の生き方が反映される。


6 通院している場合、健康保険証とお薬手帳は忘れずに持つ。


7 高齢者には声をかける。


8 電気がなくても2~3日生活できる準備と電気に頼らない生活も体験しておく。