語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

釘子さん 男性

3月11日14時46分東日本大震災発生その時わたしは、


 地震発生時、陸前高田市高田町の中心部にあった大町クリニック駐車場で車がバウウドするかのような大きな揺れを感じました。駐車場では、杖を突いた老人が立っていられず、車にすがりつき、「大丈夫ですか」と声を掛けると、頷くのがやっとでした。

 車のFMラジオは「大津波警報で、6㍍の津波が気仙沼市に到達する」と放送。私は、地震が少し弱まったので、自宅に車を走らせました。道路には、人々が不安な顔をして飛び出していましたが避難しようとしている方はいなかったのです。

 自宅前に着くと、近所の戸羽さん家族が庭におり、「大津波が来るから大石公民館に避難しましょう」と声を掛け、自宅の母を呼びに行きました。母はパニック状態で、「津波が来るから何も持たずに公民館に避難するよ」と手を引き車に乗せ、戸羽さんの妻も後部座席に乗せ、約250㍍北の大石公民館に向かいました。私たちが一番乗りでした。

 車を公民館奥に止め、母らを落ち着かせ、これから避難してくる方々のために、公民館を開けました。すると、公民館の鍵を持ち★(管理者?)村上さんがふっ飛んで来ました。次々と避難の車が来たので、車を整理し「大石地区と栃が沢地区の方々は公民館の後ろの方に避難してください。その他の方々は一中に避難してください」と叫びました。

 その時、赤黒い煙の様な物が(海側の)一中の山の方から沸いてきました。「おかしい」と思い道路に出て、西側の気仙川を見ると津波が川を越えてがれきや電柱を倒しながら襲ってきました。

 その時、一中に上る坂中腹から「釘子さん。津波が来たからみんな逃げて」と鬼気迫る声で荒木さんという女性が叫んでくれました。私も「逃げろ」と叫び100人ほどが一斉に一中へ向かって坂を必死で駆け上がりました。

 中腹で後ろを振り返ると公民館まで津波が押し寄せ、消防団員が必死に逃げてくる方を助けていました。後にその消防団員は津波にのまれたことを知りました。

 やっとの思いで一中に登り、眼下の酔仙酒造を見ると、うずを巻いた津波が瓦礫と流れていました。グラウンドには、約300人の一中生、住民が次々と避難。消防団員に「ヘリポートが必要になると思うのでこれ以上車をグラウンドに入れないようにしましょう」と相談して車の整理を託しました。

 この時点では(余震が続き)体育舘が使用できず、とりあえずテントを建てようとなり、佐々木校長にお願いをしてテント3基を軽トラで運び、中学生や住民が建て始めました。
そうしている間に、体育舘の安全が確認され移動したのです。



高田第一中学校体育館


 体育館に移り、始めに地区別の避難者の確認と、地区別に体育館を6カ所に分けたのです。なぜなら、家族がばらばらに避難しており、子供、高齢者、怪我人もおり、地区別にすることで、それぞれで面倒を見てもらおうと思ったのです。
一区甲、一区乙、二区~十区、十一区~十六区、中学生、ステージに高田町以外と分けました。

 この区割りと同じ物をホワイトボードに書き、体育館玄関前に設置。地区別に、学校のA3用紙に名前を書いてもらい、これを基に避難していた東北銀行、岩手銀行、農協の職員に模造紙に名前を明記し体育館の壁に張り出しました。青年会議所の高橋君がパソコンで避難者リストを作り始めており、私たちと合流し作業を続けてもらいました。

 体育館では佐々木校長の提案で夜の寒さ対策に体育館と教室のカーテンと暗幕を外していました。飲み水確保のため、トイレの水と水道をストップ。この時点で水の量は約2千㍑。水の配布は1人120㍉㍑としました。



 トイレを止めたため地元の共和建設の協力で、簡易トイレを住民と8基ほど作りました。停電しており、中学校に備蓄してあったロウソクを火事にならないように空き缶に入れ、その上に中学生が造った行燈を置き、廊下や体育舘通路に置きました。暖房はだるまストーブ2台だけ。余震が続く中、身を寄せ合いながら一夜を過ごしたのです。

 12日午前2時ごろ、内陸部の横田消防団が、瓦礫の中を救助に来てくれました。何が必要か聞かれ、「飲み水、食料、毛布」と伝えました。
午前11時頃には、周辺の方々から、おにぎりの炊き出しが届き始めました。千個のおにぎりは、本当に心のこもったもので感動しました。大人には、水と配布。子供にはローソンが提供してくれたトラック1台分の食料を各教室で配りました。子供と大人の食事場所を分けたのは、パニックを恐れたからです。食料の配布が安定するまで続けました。

 12日午後に到着した日赤の衛星回線でようやく外部と連絡が取れました。この様な形で、8月までの5カ月間も避難所生活を送るとはあの時は全く思いもしませんでした。
そして、自分たちが、避難する避難所に対して何も知りませんでした。
停電時の予備電源がない事、避難所にも関わらず、毛布などの備蓄すべき備蓄倉庫が予算不足でなかった事実。水確保や仮設トイレなどの緊急対策が不十分だったことなど、数え切れないほど何も知りませんでした。皆さんは、自分が避難すべき避難所の事を、どこまで知っていますか。

 もう一度、自分の避難所を見直してください!自分の命と、大切な方の命を守るため、お願いします!災害は、必ず来ます!今できることに取り組むことで減災はできます!


高田第一中学校避難所一階

高田第一中学校避難所一階

高田第一中学校避難所二階

高田第一中学校避難所二階

震災直後の大石地区

震災直後の大石地区

大石公民館

大石公民館