語り部の体験紹介コーナー

東日本大震災の被災者からのメッセージです。

三陸河北新報社 新聞記者の震災体験 第3話

10日後に私は女川に戻りました。役場の副所長さんが私の顔を見て、「あっ、女川から逃げた記者が来た」と言われしましましたが、すぐに「だけど、お前があの記事を書いてくれたから、すぐに自衛隊が来てくれた」とフォローをしてくれました。口は悪いのですが、いい人です。


 


 その後、私は女川の定点観測を続けています。高台から震災翌日にとった写真があり、同じ場所で10日後、半年後、1年後、2年後と撮影を続けています。翌日の朝は、まだ2~3mの津波が来ては引いていました。10日後には自衛隊が来て何とか車が走れる状況になっていました。半年後には多くの建物が解体され更地が多くなり、2年近くたった時には、ほとんど建物が解体されてしまいました。


2年少したった今年の7月には、土盛り工事が始まりました。


 


 私の取材範囲は、女川町や石巻の牡鹿半島など港ばかりでした。つまりすべて大きな被災をした場所です。震災後しばらくはみなさん元気でした。「後ろをふりかえったてしゃあないべ」と言って、空元気じゃないですが、アドレナリンが出ている状態でした。しかし、避難所暮らしが2か月、3カ月と続き、仮設住宅が建たない状況が続くと、東北人は我慢強いと言われますが、だんだんと苛立ちを隠せなくなってきました。それが私にも伝わり、女川の取材だと思うと朝から憂鬱な気分にもなりました。そのためか 9月の健康診断では、異常に高い血圧の値が出ました。同僚の記者も同じでした。自覚症状がなく元気だと思っていましたが、多くのストレスを感じていたのだと思います。


 


 取材をしている中で、気づいたことがあります。9割近くの家が流された地区でも、大昔から移動していない神社だけは助かっていました。そのような所が各地にありました。神社を建てたのは50年、100年の知恵ではありません。鎮守の森という言葉がありますが、1,000年単位の経験で、大丈夫だという所に建てているのだと感じています。


 


 今、被災地では多くの、震災遺構が解体されています。地元では思い出すので壊してほしいという人が多いいという現実はありますが、私は津波の怖さを肌で感じるものを残してほしいと思っています。


 


私がこの震災を経験して、皆様にお伝えしたいことは「津波が来たら逃げるしかない」ということ。また、3日食料を食べなくても大丈夫ですが水は我慢ができません。少なくとも「水」だけは必ず備蓄して下さい。そして車に乗っているかたは必ず「ハンマー」を用意して下さい。今回、津波に車ごと流されパワーウィンドウが一瞬で海水のため作動しなくなり外に出ることが出来ず、亡くなってしまった方々が大勢いらっしゃいます。


 


最後に、石巻を訪れて下さる方々によく聞かれることがあります。「来て迷惑じゃないか。気分が悪くないか」と。そのようなことは全くありません。見たこと聞いたことを、ぜひ地元にお伝えください。また、石巻、気仙沼ともども美味しい物が沢山ありますので、来ていただいたらぜひ、沢山食べて、沢山買っていってください。どうぞよろしくお願いいたします。