昭和61年10月11日エルサルバドル地震災害

体験記(7)

エルサルバドル地震災害

地震の被害状況 国際消防救助隊の構成等
携行救助資機材 出発までの動き
被災地での活動状況(1) (2) (3) (4)
各国救助隊の体制 第2次派遣隊
現地での新聞報道及び反響 帰国後の動き
外務省の支援
体験記(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

体験記(7)
出発するとき、息子に泣かれました

横浜市消防局 消防士長 福井秀行

 10月14日、夜の11時頃、電話連絡でエルサルバドルへの派遣を聞かされました。自分が選ばれたのと世界地図でエルサルバドルという国を見て、びっくりしてしまいました。
 早速、新聞を集めて、エルサルバドル地震の記事を探して情報収集。妻はせっせと荷作りをやりながら、「あなたは最初から全力投球の飛ばしやだから無理をしないで身体をこわさないで帰って来てね。」と。義母からは、「日本の代表なんだから一生懸命頑張って。」と。12月に3歳になる長男は、泣いて、「行かないで。」と言う。なぜかと聞くと、20日に東京ディズニーランドに行く約束をしていたからだと言う。職場では、消防局長をはじめ、上司の方々から持てる力を十分発揮してほしいと激励されました。しかし、日本との環境のちがい、言葉、食事、水、気候そして今でも地震が続いているなかで、十分な活動ができるのかと思ったり、焦ったり……。先輩や同僚達は、梅干し、煎餅、ミネラルウォーター、ビタミン剤まで色々用意してくれた。また救助課の先輩方は、必要資器材をはじめ、作業服、手袋、編上靴、医療品、その他色々な物を徹夜で梱包してくれました。
 上司の方々や、同僚達が私達のためにこんなに苦労してバックアップしてくれたことは、私達に期待し、心配して下さっているのだと感激でいっぱいでした。
 横浜消防3千人の中から選ばれ、しかも日本の代表として行くのだから満足に食事がとれなくても、睡眠不足でも、道具がなく素手でも、石ころ一つ一つ運んででも頑張らなければと思いました。
<準備で特に心掛けたこと>
 私は、過去3階の渡航経験で、生水代わりにミネラルウォーターの準備。ハム・ソーセージ類も生のままでは危険があるので、すべて火を通したものをと肝に銘じていました。下着はなるべく古いものを持って行って使い捨てにするようにしました。またパスポート、財布などの貴重品は必ず身に付けるようにしました。
<現地に到着して>
 30時間を費やしてエルサルバドルに朝の8時(現地時間)到着したとき、長時間椅子に座っていたので腰が痛く、足は靴がはけないくらいふくらみ、ニワトリのように運動もせずに、機内食を食べていたので胃がもたれてしまいましたが、そこは平素鍛えた体力と若さで直ぐに現場へ直行しました。
 現場でまず目についたのは、地震で家屋を失った人々が道路沿いにトタンやダンボール、シーツなどを木に縛りつけて作ったバラックが所狭しと並んでいるのです。無邪気に裸で遊んでいる子供、泣いている赤ん坊を見ていると可哀想で胸がつまってしまいました。
 車は崩壊現場のルーベンダリオビルに到着しました。すごい死臭が鼻を刺激し、ガレキの山にいったい何人いるのだろうか、生存者は、疑う気持ちとともに地震はほんとに恐ろしいと痛感しました。救助作業は、提灯を潰したようなビルをひと階ずつはがしていく作業で、遺体の収容がほとんどでした。
 この作業では、我々が携行した削岩機やエンジンカッターが適し、日本チームが率先して暑いなか、現地の救助隊に技術指導をしながら四六時中削岩機等を使用していると、気力はあっても体力が続きませんので、交代で活動することにしました。
 現地の救助隊は積極的で、日本の救助資器材にたいへん興味を持ったようで、言葉が通じなくても手まねで指導すると飲み込みが良く十分に活用できるようになりました。
<海外へ派遣された>
 自分なりに、出来るだけのことはやって来たと思っていますが、もっと自分に体力があって、少しでも英語、スペイン語が理解できれば、救助活動や技術指導がもっとスムーズにできたのではないかと思います。
<全国の国際救助隊員のみなさんへ>
 私が今回の派遣で感じたことは、大災害はいつ、どこで発生するか、それに伴っていつ、どこへ派遣されるか分からないということです。ですから今の自分の体力に磨きをかけ、あらゆる資器材に精通し、また偏食することなく何んでも食べ、英語をはじめ語学も勉強する必要があると思います。これらは、日頃の訓練で養って備えていれば、いざ鎌倉という時に自分の自信につながるはずです。