昭和61年10月11日エルサルバドル地震災害

体験記(2)

エルサルバドル地震災害

地震の被害状況 国際消防救助隊の構成等
携行救助資機材 出発までの動き
被災地での活動状況(1) (2) (3) (4)
各国救助隊の体制 第2次派遣隊
現地での新聞報道及び反響 帰国後の動き
外務省の支援
体験記(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)

体験記(2)
救助活動は精神力との戦いでした

東京消防庁 救助課長 鴇田 寛

 10月11日発生したエルサルバドル共和国の地震災害現場に、「国際緊急援助チーム」の一員として派遣され、救助活動に従事することになった。もちろん、海外に赴くのは初めてであり、率直に言ってエルサルバドル共和国の国情も知らず、更に災害状況も詳しく把握していないまま、被災国へ向かったので大変緊張し不安であった。
 出発に先立ち、中條消防総監から辞令を交付されたとき、この1枚の辞令が重く感じられ、現地での任務の完遂はもちろんのこと活躍と期待を意味しているのだと自分に言い聞かせたのである。
 マスコミのフラッシュを浴びながら、幹部をはじめ大勢の職員に激励を受け玄関で見送られたときは、東京消防庁、いや、全国消防機関の代表であるという責任感と現地での任務の重さが心の中で錯綜し、足どりも乱れがちであったことを覚えている。
 新東京国際空港の待合室に一行のメンバーが次々と集まってきたが、どの顔も幾分緊張しているように思えた。自己紹介が済み数分後には機内の同一グループになると思うと、何となく親密感が涌いてきた。
 ロスでは、エルサルバドルの空港が混乱しているのか飛行機の便が遅れ、8時間ほど待たされる状態であった。しかし、一行のミーティングの場となり、エルサルバドルの国情について知ることが出来るなど、必ずしも無駄な時間帯ではなく、ある意味では有意義な一時とも言えた。いよいよエルサルバドルへ向かう時刻が来たので、全員救助服を着て身を整え機中に乗り込んだ。機中では、現地のマスコミの取材が活発に行われた。日本から救援隊が来るという情報が事前に流れていたらしい。その取材ぶりによって、日本隊の活動への期待がいかに大きいかを身を以て知らされ、任務の重さを痛感した。
 この飛行機は、グアテマラを経由してエルサルバドルへ行く予定であったが、日本の救援隊が搭乗していることで、エルサルバドルへ直行させる等の便宜を図ってくれたのを知り、この緊急性を感じた。しかも現地人が多い機内からは、どの顔からも感謝の表情が汲みとれた。
 日本を発って約30時間後、クスカトラン国際空港へ到着した。空港は、正常に機能しており周辺にも被害はなく予想したほど混乱も見られなかった。直ちに現地大使館が手配してくれた車輌に分乗し、被害の最も大きいサンサルバドルへ急行した。途上、橋の亀裂や崖崩れが所どころに見られ、市中心部へ向かうに従って被害が目立ちはじめ、ルーベンダリオビルの現場に到着して崩壊したビルの残骸を目前にしたときは、思わず目を覆う程であった。たたんだ提灯のようで、何階建であったのか分からないような崩壊と、この瓦礫の中に多数の要救助者が埋もれていることを想像したとき、誰とはなしに激怒したい興奮と一刻も早い救助の必要性とを感じた。
 早速、災害対策本部と打ち合わせをすると、そのビルの中にいる人の救助に当たってほしいとのことであった。
 日本との建築基準の違いはあるものの、このような崩れ方は想像出来ない。鉄筋造りであることは間違いないが、柱や壁の部分が残っておらず、階層の床部分だけが残っているようであり、正に欠陥ビルであると思われた。(後で知ったが3年ほど前に改修命令が出されていたという。)
 資器材が到着するまでの間、どこからどういう方法で救助を開始したらよいか思案に暮れた。ビルの図面がなく構造は分からないがとにかく現場を詳細に見聞して情報を収集しなければと思った。言葉も通じない。この辺が日本と大きく相違するところである。
 救助は、重機(クレーン)を駆使し、瓦礫等の障害物を上部から逐次排除していく方法と、削岩機や切断機等を使用し上部(屋上部分)から下階層に向けて掘削していく方法が考えられた。我々は、12日から14日まではファイバースコープの先端部分を瓦礫の穴に差し込んで検索したり、ビルの屋上から下階層に向けて掘削し、人を救助する作業を行ったりした。15日以降は、アメリカチームがクレーンを持って来たので、協力しながら上部から瓦礫を排除する方法に切り替えて救助作業を続行した。
 活動中、何度も余震があるので隊員が瓦礫の中にいるときは、2次災害を心配することがたびたびあった。
 日本から携行した救助資器材はすべて活用したが、特にファイバースコープ、レスキューツールは効用も大きく、現地のラジオ、テレビ放送、新聞等で取り上げられる等大いに注目され、面目を保ち内心嬉しかった。
 連日、30度を超える酷暑の中での救出活動は、極めて厳しかった。特に我々の救助服はオレンジ色のため、よく目立ち、地元の人達は日本の救助隊に大変期待をしているので、救助の手を休めることができない。また隊員数が少ないため、常に瓦礫の上での作業を強いられ、一面においては精神力との戦いでもあった。隊員が大勢いればカバー出来るが、遠隔地であり応援体制も思うようにならない。
 このような状況下、応援部隊(横浜市消防局3名)が到着したときは非常に嬉しかったし、また、疲労を忘れさせる何よりのカンフル剤であり心強かった。応援部隊の加勢後の現場は、総勢9名(消防庁救急援助室長を含む)であり、諸外国の救助隊員と比較し必ずしも多くないにもかかわらず、活気に溢れ、現場の指導的役割を果すような感じさえあった。
 今後、より豊富な資器材と充実した陣営で臨めば、更に効果が挙げられると思われる。そのような体制整備を早期に実現されるよう関係機関のご理解を望むものです。
 今回の救助活動で教訓になったことは次のような事項であった。

  • 1. 効果的な救助活動を行うためには、資器材及び救助隊員の速やかな現地入りが必要であること。
  • 2. 救助は、一刻を争うものであり、24時間態勢で望むべきであること。
  • 3. 有効な検索資器材を早期に開発する必要があること。
  • 4. 現地人は、安全管理に対し概して無関心であり、災害に巻き込まれないよう配慮する必要があること。

 以上今回の派遣について感じたままを述べてみたが、全隊員とも朝の7時から夕方の7時までの12時間労働に耐え抜き、懸命に活動するその責任感と積極性が被災国民の共感を呼び、賞賛と感謝を得ることができたものである。この貴重な体験を今後の体制整備と国際救助隊員の育成に生かしていきたいと思う。また、国際消防救助登録隊員は、平素から強じんな体力と不屈の精神を養い、技術能力を高め、かかる災害にいつでも対応できる心構えを持つことが肝要である。