1-2 むさしあぶみに見る明暦の大火と俗説「振袖火事」

1-2 むさしあぶみに見る明暦の大火と俗説「振袖火事」


明暦の大火は、明暦3年(1657年)1月本郷本妙寺より出火した火災で、江戸の三大火のひとつです。明暦の大火の様子を記録した「むさしあぶみ」には、絵もつけられており、火事の様子などを興味深く見ることができます。

(図版は東京都立中央図書館東京誌料文庫所蔵「むさしあぶみ」より

(図版使用には東京都立中央図書館の許諾が必要です。)

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08(以下は延宝版むさしあぶみ)
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この明暦の大火は振袖火事と呼ばれています。俗説「振袖火事」の由来について、小池猪一「火消夜話」誠文図書(昭54年)から紹介します。

この「明暦の大火」は、江戸最大の大火であった反面に、「振袖火事」という俗説のあった大火として人々にも知られている。この俗説について消防史家小鯖英一氏の資料に、つぎのような記述があって誠に興味深い内容であるため、原文のままつぎに記載しておこう。

「麻布百姓町の質屋さんで屋号が遠州屋、主人の名前が彦右ェ門、この人の一人娘で梅野さん、年は十六、町内での小町娘、この梅野さんが承応三年の春うららの一日、母親につれられまして菩提寺本郷の本妙寺に参詣しての帰り、せっかくここまで来たのだから浅草の観音様へというわけで、上野池の端仲町の錦袋園の辺で駕を降りまして春のどかな上野山下を母親二人でぶらぶら歩いておりますと、通り魔のように擦れ違った美しい寺小姓、どこのだれかわからず口もきかなかったのですが、これがいわゆる一目ぼれというやつで、上野山内へ後姿を消してゆくまで、ポーッと見とれていた。母親にかたをたたかれ真赤になったのが発端で、さてこれからというものは寝ては夢、おきてはうつつまぼろしのという、今どき流行しない恋わずらい。
両親が心配して、なにを話してもご返事なしのためいきばかり。
子煩悩の両親は八方へ手分けして、その美少年を探してみましたが、てんで手がかりがありません。
娘はろくに物もたべず、だんだんやせていくばかり、やっとの事であの方にお目にかかれないのなら、せめてあの方のお召しになっていた着物でもというわけで、紫縮緬の畝織の、荒磯と菊の模様を染め、桔梗の縫紋を置いたものをつくってもらった。
これにちょっと手を通しただけで見染めの翌年即ち承応四年一月十六日、十七才を一期として焦れ死んでしまった。
遠州屋では娘梅野の心を不びんに思い、棺をその振袖で蔽って野辺の送りを済ませ、この振袖を本妙寺に納めた、ところが本妙寺の方ではこれを近所の古着屋へ売りとばした。
翌年梅野の祥月命日にあたる日に上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きの(これも十七才)の葬式にこの振袖が本妙寺に納められた。
又、売りとばすと翌々年の同月同日本郷元町粕屋喜右ェ門の娘いく(十七才)の葬式に三度びこの振袖が寺へ戻ってきた、こうなると住職も少々おそろしくなり、三人の娘の親に相談して、この三人が施主となって明暦三年の正月十八日寺内で大施餓鬼を修し燎火に投じてこの振袖をやくことになった。
サアこうなると、だまっていられないのが江戸ッ子。
恋し懐しが病のもと、相手は上野輪王寺水も滴る寺小姓
と、尾鰭をつけて瓦版かなんかで煽ったからたまらない、江戸中のひょうばんとなり、さしもの本妙寺の境内は超満員「早くやかねえのか」「早く焼けよ」と、はらのへったやつが、うなぎ屋へ飛込んだようなさわぎ。
住職もこの風ではと思ったが「それでは」というので火の中へこの振袖を入れた。このとき一陣の竜巻北の空から舞い下り、裾模様に火のついた振袖をさながら人間の立った姿で地上数メートルの本堂真上に吹き上げた、忽ち本堂のき先から出火、三筋に別れる狂風に煽られて紅炎の一団は湯島六丁目に一団は駿河台へと飛火した。」

これが俗説「振袖火事」の由来であるが、「明暦の大火」を記録した史料には、この三人の娘も美少年も出てこないところが俗説の俗説たるところで面白い話ではないか。