平成3年5月15日バングラデシュサイクロン災害

救助活動

バングラデシュサイクロン災害

はじめに バングラデシュサイクロン災害の状況
国際消防救助隊の構成と携行資機材
行動日程 救助活動 各国救助隊の様子
隊員の手記から

4.救助活動

(1)ヘリコプターの組立

 第1陣によって迎えられた第2陣は、ダッカ空港で合流、簡単な打合せの後に即、作業が開始された。現地時間の18日午前1時である。
 バングラデシュの人達を一刻でも早く救援するため、メカニック達は徹夜でヘリコプターの組立作業を開始した。
 ハンガー内に整理され置かれているヘリコプター及び救助資器材等は梱包が解かれる等、第1陣によって作業が始められていた。
 蒸し暑いハンガーの内では照明に群がっている虫に驚き、閉口した。油ぜみに似た10cmほどもある大きな虫や数mmの、虫が無数に飛び回って仕事の障害となり、デリケートなヘリコプターの機能に影響を及ぼしてはと、大変に気を使った。
 18日7時30分からメカニック、パイロット、アナム(民間整備士)の技術力を集結してのヘリコプターの組立作業となった。
まず、東京の機体を集中的に行った。
しかし、ハンガーの中に住み着いた鳥達のフンと蒸し暑さに悩まされながらの組立作業であった。
 11時30分に「かもめ」の組立が終わり、13時30分から1時間のテストフライトに成功、19日11時30分に「おおさか3」も組立を完了し、両機ともチッタゴンへの移動可能となった。
 東京消防庁としては、訓練で解体・組立を実施したことから海外においても組立てる自信はあったものの、整備資材も十分に確保されていないダッカ空港での成功は大変な感激であった。

ダッカ空港で組立、整備を待つヘリコプター

組立完了、ベンガルの空を初飛行

(2)ヘリコプター チッタゴンへ到着

 ダッカ空港では「かもめ」「おおさか3」のテストフライトを終えて、19日14時00分、チッタゴンへ向けてのフライトプランとなっていた。
 しかし、ヘリコプターの給油が2時間30分も遅れ、給油が終わったのは14時過ぎであった。
 予定より1時間遅れで15時00分のフライトである。
 「かもめ」「おおさか3」の2機に横田団長、原田総括官、尾崎補佐官、パイロット、メカニックの総数18名が分乗した。
 日本国として、外国の空をヘリコプターが飛ぶのは初めてである。それも2機。
 雄大なガンジス川の上を赤い消防のヘリコプターの編隊飛行、全員がこの現実をかみしめ、表現できない感激であった。
 国際緊急援助隊として、いや、日本国として歴史に残る活動の始まりであった。
 チッタゴン空港で活動拠点の設営を完了した隊員達は、ヘリコプターの到着を待った。
 到着は15時10分頃の予定である。しかし5分、10分、30分待ってもヘリコプターの姿は見えない。
 どうしたのだろう、大使館の車載無線機もダッカの大使館と通じない。いてもたってもいられない。救助隊員全員がダッカ方向の空を見つめ、いらだちと不安がどの顔にもうかがわれた。
 16時10分、大森ヘリ隊長が送信し続けていた航空無線に「かもめ」からの応答があった。「現在地、チッタゴン空港の北西にあり約5分後に両機とも着陸予定である。」
 1時間遅れでヘリの姿を見つけたとき、そして近づいてくる赤いヘリコプター、こんなに赤が美しく、そしてうれしく思われたことはなかった。
 ヘリコプター2機は、一列に並んでガンジス川の上を飛んできた。日本として外国の空を飛ぶ初めてのフライト、画期的であり印象的、そして勇壮に飛んできた。
 多くの隊員がこれに涙した。そしてこれを打ち消すかのように「ワー」、「オー」と歓声をあげて迎えた。16時15分であった。

(3)救助隊員の活躍

 救助隊員はトラックで搬入された救援物資を降ろし、これをヘリに積載するために1個1個重量を測定する。
 1日に1回来るスコールから物資を守るために、防水シートを用いて保管する等の配慮も重要であった。
 ヘリコプターの搭乗者は、パイロット、コーパイ、BD軍のパイロット(ナビゲーターとして必ず乗った。)
、整備士と救助隊員1名若しくは2名の体制である。このため、積載する物資もヘリコプターの燃料の量や飛行距離によって異なるので、重量を500kg~600kgとした。
 救助隊員によって積み込まれた物資は、被災の島へ搬送される。

 島には急ごしらえのヘリポートが数カ所ある。
 ヘリポートはBD軍とCAREの数人で管理し、BD軍等によって住民の統制と救援物資の公平配布を行っていた。
 物資は救助隊員がヘリコプターから降ろしBD軍等に引き渡すことになっていたが、統制が不十分であると我先にとヘリコプターに走り寄りたちまちのうちに奪い合いになってしまい、パニック状態となり収拾がつかなくなる。

 「かもめ」に住民数十名が殺到し、ドアーを若干変形させられてしまったことが一度あった。
 管理不十分なところへ粉ミルクの缶を降ろし始めた瞬間、この様子をヘリコプターを取り囲んだ1千人ほどがじっと見ていた。制止する間もなくあっという間に強奪された。たまたま、NHKテレビが取材している時の出来事であった。
 ヘリのクルー達は、大変な危険を感じ、生きたここちもしなく、急いでヘリのドアーを閉めフライトした。
 物資の困窮は極限に達し生死に係わる問題となっていただけに、生きる厳しさを強烈に思い知らされた。
 以来、救助隊員の搭乗を2名とし現地では先に降り、BD軍、CAREの受入れ体制と安全を確認してから物資を降ろすことにした。
 救助隊員はこの他、兵帖業務全般を担当した。
 大変で重要なのは昼食準備である。
 日本から持参したカップラーメンやパックカレー等レトルト、インスタント食品の給食である。
 これも50食以上(1人1回ラーメンとライス等で、マスコミ等も混ざるので110食程度となった。)となると、お湯を沸かすことだけでも大変である。
 当初はコンロも十分でなく、固形燃料を用いての作業で思うようにいかなかった。
 数日して石油コンロを調達したり、かまどで廃材を燃やして湯を沸かした。
 食器類の消毒も大変だ。水道水で洗った器を煮沸して保管しておく。
 これも効率的に行うために4消防本部でローテーションを組む等、隊員を当番制にして対応した。

飲料水の確保

(4)パイロットの活躍

 パイロットの仕事はヘリコプターを操縦するだけではなかった。
 ダッカ空港においてはメカニック達と一緒になってヘリコプターの組立を行った。まさに航空隊員でなければできない組織対応であった。
 そんなパイロットの中で東京の大森ヘリ小隊長は常に先遣隊として行動した。
 ダッカにおけるヘリコプターの受入れ準備、さらにチッタゴンでの活動拠点等の確保をヘリコプターに関するノウハウを生かした先遣活動を極めて円滑に行い、万全の体制を築いてきた一人である。
 パイロットは初めての外国の空の運航で、大変なプレッシャーがかかっていた。
 バングラデシュの航空地図の最新版は1982年であるが不正確で、ガンジス川も川筋がところどころ変わっていたり地図にない島があったり、また、島の位置が変わっており地形判読には信頼することはできなかった。BD軍の使用している地勢図は1971年製作のもので、これも信頼できる情報、データは入っていなかった。このため地形判読の有効手段は、従来の航法装置に加えて、オメガ航法気象用レーダーがとても有効であった。こんな状態のため、20日チッタゴンでの初めての被災状況と、救援する島、ヘリポート等の調査飛行の時上空からポラロイド写真をとり、実態把握と運航の円滑化を図った。
 BD国は天気予報のサービスはない。
 BD軍に天気はどうだと聞いても「ノープロブレム」(問題ない)という。明らかに雷雲が出て今にもスコールが来そうな空でも「ノープロブレム」と、いともそっけない。
 「かもめ」はウェザーレーダー(気象状況をチェックする機能)を持っていたため雲の位置をキャッチでき、これが大変な威力を発揮、早めにフライトプランの変更ができた。

ヘリコプター臨着場

 しかしチッタゴンで晴れていても雲の動きが早く、島の上空に入ったとたんスコールに遇うということもしばしばで、こんな時にはヘリポートの位置の確認や着陸に大変な神経を使っていた。
 天候も変わりやすく不安定な土地であったため、「かもめ」と「おおさか3」は常にペアーで飛行し、相互監視をしながら安全確認を図って円滑な活動をした。
 パイロットは少人数のために交替も十分にできず、疲労も大変であった。そんなこともあって、パイロット達の健康管理はそれぞれが特に留意し、多くの救助隊員達が下痢に悩まされたにもかかわらず、体調を保っていた。

パイロットの事前ミーティング

ヘリの毎日かかせない点検

(5)メカニック(整備士)の活躍

 国際消防救助隊員の中でメカニック達の仕事が一番大変であった。
 日本におけるヘリコプターの分解、そしてダッカでの徹夜のヘリコプター組立、さらに最後は分解し、5日未明までかかったJALへの積込み確認等をなし遂げた。
 今回、消防以外の他機関が参加できなかったのは、ヘリコプターの分解、搬送、組立の経験と技術がなかったためである。
 東京消防庁のメカ達がこの技術を持っていたからIRTの派遣が決定されたのであろう。
 第1陣のメカでダッカ入りした東京の堀地、岡庭の活躍は見逃すことができない。
 空港にMDLがないことが判明するや代替えを探し、運よく隣接の建築現場から50tクレーン車を調達した。
 しかしクレーン車があってもカーゴ機からヘリが簡単に降ろせるものではない。隊員達はもとより航空会社の者も初めてのケースである。
 吊り上げ用マウントを用いての作業である。吊り上げの支点・バランス等、細部にわたって確認、指示しながら安全に降ろすことに神経を使った。
 この夜に第2陣と合流し、突貫作業である。
 虫、鳥のフン、高温・多湿の激劣悪な環境下で、限定された資器材、設備を用いての作業である。
 東京の「かもめ」は12時間の短時間で組立作業が完了した。
 地上のエンジンテスト、テストフライトにも成功した。
 「おおさか3」は「かもめ」よりもさらに円滑に作業が進み、19日午前中のテストフライトとなった。

組立、解体作業を行った格納庫

 メカ達は朝早く、仕事の終わりは最後となる。
 チッタゴンの活動拠点においては、朝6時30分から飛行前点検に入る。
 湿度が高いことから、機器の配線や計器に水滴が付着するので、入念な点検をしなければならない。
 フライト時の運行状況のチェックはもちろん、物資の積み降ろし等の活動も救助隊員と協力しての作業である。
 そしてフライト終了後の点検整備である。
 また、定時飛行時間の点検を行う等、時間管理も重要である。
 これらのメカ達の任務は、安全に円滑フライトするに欠かすことのできない、極めて重要なものであった。
 そして、救援活動の任務を終息してからは、分解、梱包、カーゴへの積込みが最後まで残っていた。

無事救援活動も終り活躍したヘリコプター解体作業中も各隊員の胸中は満足感でいっぱい

整備士の活躍もヘリコプターとの一心同体

細心の注意を払って全員で行った解体作業

 特にヘリコプターの整備はアナム(全日空整備)の方達の技術と献身的な活躍と適切なアドバイスがあってこそヘリコプターが無事故で組立、運行、分解できたものであり、このご支援とご協力に対して深く感謝いたしたい。