3.大正期の消防

(3)消防資機材等

大正期の消防

望楼

火の見櫓という名称が、現在のように望楼と改められたのは大正時代になってからのようである。大正5年(1916)には、望楼の中に初めて風速計が設置された。空襲が激しくなった昭和18年には、望楼全体を枝葉で覆って偽装したり、爆風よけとしてトタンや厚板を張り巡らした。占領下にあった昭和22年には、総司令部の指導のもと、火災発見により正確を期すため望楼に分度盤が置かれるようになった。
 昭和30年代には塔屋式や煙突式の新しい望楼が登場し、火災発見に大いに貢献することになるが、やがて高層建物が増えて視界がふさがれるようになり、また電話の普及により電話による火災通報が増え、望楼の役割は時代とともに減少していった。

消防ポンプ自動車

 大正3年(1914)3月から約4か月間にわたって東京の上野公園で大正博覧会が開催された(主催は東京府)。世界の科学技術の粋を一堂に集めたものであり、ここにイギリスのメリーウエザー社とドイツのベンツ社が、それぞれ消防ポンプ自動車を出品しており、これを横浜市と名古屋市が1台ずつ購入して、わが国で初めて使用することとなった。東京は、それから3年遅れて大正6年(1917)の導入となった。

大正中期のポンプ車

(「やさしい消防のはなし」より)

関東大震災後輸入したアメリカアーレンフォックス社製ポンプ自動車
(大正13年-昭和21年)

(「東京の消防百年の歩み」より)

関東大震災後輸入したアメリカスタッツ社製A型ポンプ自動車
(大正13年-昭和21年)

(「東京の消防百年の歩み」より)

火災専用電話

 大正6年、わが国で最初の火災専用電話が、東京の消防機関に設置された。これは消防部、消防署、消防出張所に公衆電話に接続した火災報知専用の電話を設備したもので、電話局の交換手に「火事」と告げると、最優先に火点近くの消防機関に接続され、出火場所を知らせるという仕組みであった。
 しかしながら、運用開始当初は有料であったため、往々にして報知をためらうことがあったため、大正8年からは火災通報は無料で扱うこととなった。

消防部の火災専用電話受信室

(「東京の消防百年の歩み」より)

火災報知器

 火災専用電話は、当時まだ加入電話や公衆電話が少ないうえ、深夜の利用に不便をきたし、また語呂の似た町名は聞き誤りがあるなど、利用に際して問題点が少なくなかった。火災報知機は、こうした不備を補う手段として、大正9年東京日本橋区に24基設置されたのが始まりである。設置当初は、火災盗難報知器と呼ばれ、火災だけでなく、盗難あるいは危急の事件に遭遇、覚知した場合に、消防機関または警察機関に通報するための発信機であった。

街頭に設置された火災報知機

(「東京の消防百年の歩み」より)

119番通報

 関東大震災で壊滅した東京の電話機構は、復興にあたり新しい自動交換方式を取り入れ、大正15年からダイヤル式即時通話となった。これに伴い火災専用電話に「112番」の専用番号が用いられたが、この番号は誤接続が多いため、昭和2年から末尾番号の2を局番号として未使用の9に改め、今日に至っている。

119番広告(マッチのラベル)

(「東京の消防百年の歩み」より)