3.大正期の消防

(1)関東大震災

大正期の消防

 時代は大正となり、機動力の高い消防自動車が普及して、消火能力は格段に向上した。東京からまったく大火が消えたわけではないが、明治期と比べればはるかに減少し、市民はようやく枕を高くして眠ることができるようになった。
 ところが大正12年(1923)9月1日午前11時58分44秒、突如として関東一帯を一大激震が襲った。だれもが経験したことのない激しい揺れに、屋根瓦はいっせいに地面に落ちて飛び散った。倒壊する家屋、そして家の下敷きになった市民。倒壊した家からあがった火の手はたちまちあたりに燃え広がり、紅蓮の炎となって地をなめ、天を焦がしていく。火災は、地震発生直後から東京市内15区すべてで発生し、記録されただけでも136件にのぼった。

日本橋三越呉服店付近延焼の図

(「東京の消防百年の歩み」より)

 各種電話は不通となり、道路は避難と家財を搬出する市民で埋まり、橋梁も落ちたりあるいは焼け落ちたりで通行不能となり、そのとき消防機関は、最も必要とした司令部の命令伝達及び市内各消防隊からの情報収集機能を失っていた。さらに淀橋浄水場は、場内の動力電源が断絶し、場内から通じる本郷・芝高地線の基管が破損したため通水不能に陥った。また6台の送水ポンプは付属部品が破損し、排水管にも亀裂を生じ運転不能となった。加えて市部の地下に分布する大小の水道管は、牛込区市ヶ谷八幡前の1,100mmの大鉄管の決壊はじめ、数千か所に亀裂を生じ、芝の低地線を除くほか、水道、消火栓はほとんど断水し、消防隊は全市内において主要な水利を失った。このため7,200余りの公設・私設消火栓は使用できず、専ら河川、濠水、池水等に水利部署して防御活動にあたるしか手立てはなかった。
 どこもかしこも惨澹たるあり様である。芝区三田では日本電気会社工場が倒壊し、勤務中の社員、工員約400人が圧死し、浅草では東京初の高層建築として名所となっていた12階(凌雲閣)が8階から折れた。丸の内ビルディング街では建設中の内外ビルが倒壊し、作業中の労務者約300人が、これも圧死した。横浜では官庁関係建物43のうち33を焼失し、26あった外国領事館はすべて全焼した。横浜裁判所では所長以下約100人が圧死し、グランドホテル、オリエンタルホテルも倒壊した。午後3時ごろには、中村町にあった神奈川県揮発物貯蔵庫に飛火して火災が発生し、貯蔵してあった多量の石油等に引火して大爆発が連続して起こった。数千人が海や川に飛び込んで難を逃れようとしたが、水面に浮いていた重油に引火して大半の者が死亡した。
 大惨事が相次ぐ中で最も悲惨な光景は、本所区横網町の陸軍被服廠跡で生じた出来事であった。1日午後4時ごろ、約4万人の避難者が押し寄せていた同所に四方から炎が追った。そのうち火は家財に燃え移り、そこへ突如として大旋風が巻き起こり、約3万8,000人が焼死するという悲劇を生じたのだった。

本所横網町付近大旋風の図

(「東京の消防百年の歩み」より)

 この大災害に対して、消防はその組織機能すべてを投入して立ち向かったが、殉職者22人のほか、消防本部庁舎はじめ消防庁舎18か所、ポンプ車、はしご車など消防車両23台を焼失するなど大きな痛手をこうむった。
 関東大震災の被害は、死者14万2,807人、家屋の全壊12万8,266戸、全焼44万7,128戸、津波による家屋流出868戸、計57万6,262戸にも及んだ。東京全体では死者6万420人、行方不明3万6,634人、焼損棟数22万1,718棟、焼損面積540万9,282坪(1,785万630平方メートル)に達した。市内15区の焼失割合の高いところは、日本橋区は100%、浅草区96%、本所区95%、神田区94%、京橋区86%、深川区83%であった。また他県の被害状況は、神奈川県は家屋の全壊4万6,719戸、半壊5万2,859戸、計9万9,578戸に達した。そのうち横浜市では市の全戸数9万8,900戸のうち6万2,608戸が全焼し、家屋の全壊は9,800戸、半壊1万732戸、計2万532戸に達した。また、圧死者を含む死者は2万3,335人であった。千葉県は家屋の全壊1万2,894戸、半壊6,204戸、計1万9,098戸に達した。埼玉県は全壊4,562戸、半壊4,348戸。静岡県は全壊2,241戸、半壊5,216戸。山梨県は全壊562戸、半壊2,217戸。茨城県は全壊157戸、半壊267戸であった。この地震の震源地は伊豆大島付近の海底と推定され、地震の規模を示すマグニチュードは7.9であった。