2.明治期の消防

(2)消防制度

明治期の消防

町火消から消防組へ

 明治新政府は、長い歴史を持つ江戸の消防制度に対しても次々に改革の手を加えていった。武家火消はことごとく廃止され、明治元年(1868)5月19日、これに代わる火災防御隊という消防組織が定火消の役員等に編成され、軍務官に属することとなった。さらに明治5年(1872)4月、いろは48組及び本所・深川16組の総称である町火消の名を「消防組」と改め、新たに消防組を39組編成して、これを六大区(東京府の所管に属し市中の取締りを行っていたところ。後の警察署に相当)に配置して○大区×番組と称するようになった。この時、江戸末期には1万359人いた町火消も約4分の1の2,558人に減ってしまった。
 明治7年(1874)12月には、消防組の詰所である消防屯所を、東京市内25か所に設け、交替で勤務することとし、火災の多い11月から4月までは夜間も交替で当直する勤務体制をとることとした。これが交代制勤務制度の始まりである。また、この時に設けた消防屯所制度が、後の消防分遣所、消防分署制度へと発展していった。

消防章程

 明治7年、消防組員に対して、旧来の鳶人足という古い思想を打破するとともに、規律を正し、進退賞罰を明らかにし、服務の心得を説き、また消防人としての在り方を示した「消防章程」を制定した。第1条はこう示されている。

人民ノ損害タル火災ヨリ甚シキハナシ消防一夕ヒ其機ヲ誤ルトキハ蔓延救フヘカラス遂ニ貴重ノ人命ヲ毀損シ国財ヲ蕩燼シテ貲ラレサルニ至ル故ニ警保ノ職ニ在テ尤モ緊要ノ事務トナス

 その他、役割に応じた手当ての額、消火活動中に万一死亡した場合や負傷した場合における扶助定則(今日の公務災害補償にあたる)等、細かく規定されている。ここに江戸消防から脱皮して、消防の近代化を図るべく、その方向づけが示された。

(「やさしい消防のはなし」より)

公設(官設)消防の制度誕生

 明治維新後、東京府、司法省警保寮、東京警視庁などと所管が転々としていた消防事務は、明治13年(1880)6月1日、内務省警視局のもとに創設された消防本部の所管となり、このとき今日の消防吏員にあたる消防職員(官)が採用されるとともに、消防本部職制度が制定され、ここにわが国初の公設消防機関(現在の東京消防庁の前身)が誕生した。
 これにより消防業務の執行が一応、警察事務と区別されて行われることになったのだが、消防本部が誕生して約半年後の明治14年(1881)1月14日、警視庁が再設置されたことに伴い、警察、消防の事務は一切警視庁に移管されることとなり、消防本部は消防本署と改称された。以後、自治体消防制度が発足するまでの70年間にわたり、わが国の消防は警察機構の中に属することとなる。

消防本署に配置した輸入蒸気ポンプ

(「東京の消防百年の歩み」より)(警視庁提供)

 また、明治22年(1889)4月1日、大阪にも市制が施行され、消防規則も改正されて消防手の手当ても市負担となり自治体消防の先鞭をつけた。その後、明治43年(1910)には勅令によって大阪市消防規定が設けられ、大阪市の消防は大阪府に移管され、府警察部長の管掌のもとに常備消防の制度が敷かれることとなった。これに伴い大阪市の東、西、南、北に4消防署が設置され、経費は国又は府費をもって賄われた。

新設された東消防署

(「大阪市消防五十年のあゆみ」より)

消防組規則の制定

 消防組は、明治時代の民間組織として唯一の社会的組織体であり、行動力を持った団体であった。そのため政党運動の下部組織として利用され、明治25年(1892)の衆議院選挙では流血事件に巻き込まれるという事態も起こった。そのため公設消防組や私立消防組の抜本的改革を行う必要があり、明治27年(1894)2月9日、勅令第15号をもって「消防組規則」を制定し、消防組の組織及び基準を定め、これを府県知事の官掌としたものである。これに伴い、各府県では、これに係る施行細則を制定した。