鯰絵

鯰絵

はじめに閉じる

今から一五〇年ほど前、幕末期の江戸で大きな地震が起きた。安政二年(一八五五年)十月二日の夜の、いわゆる安政江戸地震である。荒川の河口付近を震源としたマグニチュード六.九と推定される直下型の地震で、本所、深川、浅草、下谷といった地盤の軟弱な地域を中心に死者およそ一万人、民家の倒壊一万四千戸といわれる甚大な被害を出した。

  この地震の直後、まだ余震の続く江戸の巷で、奇妙な錦絵が評判になった。地震を起こしたとされる地下の大鯰を描いた風刺画である。多くは名所絵や芝居絵と同じ大判の錦絵(多色刷り木版画)だが、いかにも急ごしらえの態で、彫りも刷りも通常の浮世絵に比べて幾分粗い。それに版元の名も絵師の名も見あたらない。改印もないのだから無届けの出版だ。毎日のように新しい絵柄のものが出回り、十二月になってお上のお咎めを受けて版木が打ち壊されるまでの二ヶ月余りのあいだに、二百種ほどの地震鯰の風刺画が出版された。今日これを「鯰絵(なまずえ)」と呼ぶ。

  地下の鯰が暴れると地震が起きるという俗信は、江戸時代になって広まった。この鯰を、地震後の世相を風刺しながら、さまざまなヴァリエーションで描いたのが安政二年の鯰絵である。今日、地震を起こす鯰と聞いてわれわれが漠然と思い描くイメージは、鯰絵によって作られたといっても過言ではない。今でも地震防災のキャンペーンなどで鯰のキャラクターが使われることがあるが、地震を起こし災害をもたらす役柄にもかかわらず、どういうわけか愛嬌(あいきょう)のある滑稽(こっけい)な姿で描かれることが多い。この剽軽(ひょうきん)な鯰のイメージを広めたのも鯰絵である。

  鯰絵は江戸で大流行した後、長い間、歴史資料として注目されずにきたが、オランダ人コルネリウス・アウエハントによる研究をきっかけに、わが国でも再認識されるようになった。近年では災害をテーマにした展覧会や防災関係のイベント会場で、ユーモアに富んだ歴史資料として展示されることも多い。 昨年度は国立歴史民族博物館の開館二十周年記念展示「ドキュメント災害史」や、三重大学主催の「東南海・南海地震シンポジウム」に出展され、好評を博した。

 出典:財団法人全国建築研修センター発行,国づくりと研修105

主題と変奏閉じる

鹿島要石真図

地震の体験を記録として残す、いわば震災体験記も書かれるようになります。これらには、被災者の動向や感情が直接的に表現されており、震災の実像を伝えています。

こうした、地震に関する被災体験の記述は、本格的に一つの冊子としてまとめられるものと、日記などに書き綴られるものとがありました。

「地震記事」を著した鎌原桐山は、自身の震災体験を記した「丁未地震私記」を著しています。その書き出しは、地震によって被災した自宅の様子からはじまります。「地震記事」がいわば公的な立場での客観性を重んじているのに対して、これは自らの被災体験の記述を重んじている点で桐山の震災の記録化に対する態度がわかります。

「地震後世俗語之種」は、権堂村・永井善左衛門幸一が著したものです。正編五冊・後編六冊からなります。この本の特徴は、何といってもその挿し絵にあります。臨場感のある筆致で、災害の様子を著しています。真田家が伝えた同書は永井家の原本を写したものです。ただ、なぜ、だれが写し、どうして真田家に伝えたかは不明です。

これら地震体験記は被災した場所や被災状況によって記載内容に違いが見られ、限られた地域の具体的な記録として重要な意味を持っています。

しばらくのそと寝

この鯰と鹿島神と要石の基本的な関係が、地震後の世相を風刺しながら様々なヴァリエーションを生み出していく。「しばらくのそと寝」では、巧妙に歌舞伎芝居を取り込んで世相を風刺する。一見したところ、鹿島大明神が要石で地震鯰を押さえているように見えるが、実はその地震の俗信に、歌舞伎「暫(しばらく)」で主人公が鯰坊主を懲らしめる舞台上の場面が、巧妙に重ねられている。「しばらくのそと寝」というタイトルは、被災者がしばらくのあいだ屋外で寝起きを強いられる様子を指すと同時に、歌舞伎「暫」の主人公が花道で唱える有名な名乗りの台詞「しばらくのつらね」をもじったものだ。この鯰絵にかかれた「つらね」では、主人公は被災地の地名尽くし唱えたうえで「盤石太郎いしずえ」と名乗り、「きょう手始めに鯰をば、要石にて押さえし上は」、もう地震は起きないのだと大見得を切っている。毎年十一月の顔見世興業で演じられた人気演目「暫」は、新年を予祝する呪術性の強い芝居であるが、この年は地震のせいで興業が中止になった。安政二年の「暫」は、実際の舞台にはかからなかったものの、鯰絵の中で演じられ、その呪術性は地震の鎮静に一役かったといえるかもしれない。

鯰を押さえる恵比寿

こちらは鹿島神に代わって恵比寿神が、大きな瓢箪(ひょうたん)で鯰を抑えている。地震が起きた十月は、神無月と呼ばれるように諸国の神々が出雲に集まる月である。この鯰絵では、出雲にでかけた鹿島神の留守をついて鯰が暴れたため、留守番をつかさどる恵比寿神が、鹿島神の代役となって鯰を押さえているのだ。代役であるから要石の霊力にはあずかれない。大津波や歌舞伎舞踊で知られる「瓢箪鯰」をもじって、瓢箪で鯰を押さえている。地の文を読むと「どっこいにげるな大鯰、鯛とはちがってとりにくい。・・・鯰なまなか捕らえたうえは、逃がして留守居が済みはせぬ」と持ちなれない瓢箪をかざした恵比寿神の奮闘ぶりがうかがわれる。どうやってこの大鯰を出雲まで運ぼうかと思案しているところへ鰻屋が登場し、人手で運べないなら「早くウマニにしてやるがいい」を話の落ちがつく。馬荷(うまに)で運ぶのと、鯰の旨煮(うまに)とを巧みに引っ掛けた訳だ。

地震鯰の俗信に基づきながら、歌舞伎「暫」や留守神や瓢箪鯰など、さまざまな風俗伝承を取り込み、随所に見立てやら言葉遊びを交えながら鯰絵には随分と手の込んだ笑いが盛り込まれているのである。

出典:財団法人全国建築研修センター発行,国づくりと研修105

複合的な笑いの視点閉じる

江戸鯰と信州鯰

鯰絵のなかには、鯰や鹿島神や要石のほかにも、大勢の庶民が登場する。そしてそれぞれの立場から、このたびの地震について気の利いた台詞を口にする。「江戸鯰と信州鯰」と呼ばれる大判二枚続きの力作をみてみよう。額に「江戸」と「信州」と銘打たれた二匹の大鯰が雑踏の中で暴れている。その鯰に人びとが群がって、地震後の市中の混乱した様子が描かれている。信州鯰は八年前の弘化四年に起きた善光寺地震の鯰だろう。冬が近づくと江戸には、信州から農閑期を利用した出稼ぎの奉公人が集まるのだが、ここでは善光寺地震の大鯰までが江戸に出稼ぎにきたものらしい。二匹で暴れたので大地震になったとも読み取れる。中寄りの右上に小さく、出雲に出かけていた鹿島大明神が「これはたいへん、早くいっておさえてやらねばなるめえ」と呟きながら、息せき切って駆けつける様子が描かれているが、もう既に市中は混乱を呈しており、とても間に合いそうにない。信州鯰の頭のしたには善光寺の坊主が、江戸鯰の首元には「暫」の主人公が大きく描かれていて、それぞれ先頭に立って大鯰を押さえようと躍起になっている。

ところが鯰に群がる人々をよくみると、鯰を懲らしめている者ばかりではない。群がる人々を逆に制しようとする者や傍観する者も見受けられる。中央下方の半纏(はんてん)を着た職人は「マアマアだんながた、そんなにせずと、もうかんにんしておやんなせい、それではあっちらが困ります」と人びとをなだめている。右下のおでんやの女将も、隣で頭をかいている古金屋の男に「みんな寄ってあんなにいじめるよ、情けねえのう」と話し掛け鯰に対し随分と同情的だ。職人は震災後の建物の修理や再建で、おでん屋は焼け出された人々を相手にした外食で、古金屋は廃材の回収などで、それぞれ地震で儲けたくちであるから、鯰に義理立てをしているわけだ。

出典:財団法人全国建築研修センター発行,国づくりと研修105

鯰絵に描かれた鯰は、ここに描かれたような擬人化された等身大の鯰が主流を占め、地震後の市中に出没して人々に小突かれたり、儲けた職人達と酒杯を交わしたりしながら、社会と対立するというよりもむしろ社会と馴れ合った姿で描かれているものが多い。多様で身近な視点から、地震と社会との関係を示し、それを笑いによって表しているのである。

出典:財団法人全国建築研修センター発行,国づくりと研修105

鯰絵が現代に語るもの閉じる

鯰絵の多くは地震後の市中に取材しながら、自然の圧倒的な力や、災害の悲惨さを感じさせない。あわてて江戸に駆けつける鹿島大明神にしろ、軽口を叩いて金持ちを懲らしめる地震鯰にしろ、江戸の庶民言葉をしゃべり、庶民と等身大に描かれている。また、災害に対し、被害者の立場にとどまらず、多様な観点から取材をし、複合的で柔軟な笑いを提供してる。鯰絵は、目に見えない災害という巨大な力を滑稽な鯰に擬人化して社会に取り組み、その鯰を中心にしてさまざまな人々の視点から災害後の社会を茶化している。人々はその笑いを共有することで、自らに降りかかった災害という避けがたい受難に、柔軟に対処することができたのではないだろうか。

社会が被った物的な、また人的な損害に被害者側の視点からシビアな対応が求められる現代の状況からしてみると、鯰絵に描かれた風刺は、いささか不遜で不謹慎な態度と見えるかもしれない笑いが働きかけるのは人間の心である。物的な被害に対処する一方で、現代の災害ではPTSD(心的外傷後ストレス障害)といった被害者が受けた心の傷の問題への取り組みがクローズアップされている。現代では奇異にも見える鯰絵のユーモアが、我々と設定を持つとすれば、こうした心の側面であるだろう。

災害が持つ負のイメージを強調すれば刷る程、実際にその災害で被害を被った被災者の心の傷も、深くなるのではないだろうか。悲惨な災害に対し正面から取り組む必要性を軽んじるものではないが、災害に対する一面的で過剰な反応は、一方でまた別の負債を生みかねない。多様なユーモアを複合した鯰絵が現代に伝えるのは、頑(かたく)なになりがちな災害に対する反応を、笑いによって解きほぐし、災害が持つ負のイメージを緩和する微妙な心のケアであるようにあるように思われてならない。

出典:財団法人全国建築研修センター発行,国づくりと研修105

切腹鯰(仮題)

鯰と生者と死者の和解を主題とする鯰絵。鯰が切腹して詫びると腹から小判が出てきて、景気回復を暗示する。右側の生者たちは金の入った箱を抱え、地震への憎しみが消えたという。左側に影となって現れる死者も恨みが晴れたと述べる。

出典「ドキュメント災害史1703-2003」