昭和40年代の消防
(1)災害の状況
火災
この時代の大火の発生は4件と、大幅に減少した。しかも死者を出していない。消防力が強化充実され、効率的な消火活動、機動性の高い延焼阻止が図られた結果といえよう。昭和40年1月11日、東京都大島町で発生した火災は焼損棟数585、焼損面積3万7,453平方メートルの被害を生じる大火となった。翌41年1月11日には、青森県三沢市で発生した火災が負傷者26人、焼損棟数282、焼損面積5万3,537平方メートルの被害を生じる大火となった。さらに昭和43年10月12日には、秋田県大館市で火災が発生し、負傷者1人、焼損棟数281、焼損面積3万7,790平方メートルの被害を生じる大火となった。この大火で、大館市は戦後3回の大火に見舞われたことになる。翌44年5月18日には、石川県加賀市で発生した火災が負傷者16人、焼損棟数68、焼損面積3万3,846平方メートルの被害を生じる大火となった。この加賀市大火からしばらく大火はなく、次の大火発生は昭和51年の酒田市大火となる。
次に、昭和40年から49年までの主な建物火災を振り返ってみる。昭和41年1月9日、川崎市金井ビル火災が発生し、死者12人の犠牲者が生じた。同年3月11日には、群馬県水上町水上温泉菊富士ホテル火災が発生し、死者30人、負傷者28人の犠牲者が生じた。昭和43年11月2日には、神戸市有馬温泉池之坊満月城火災が発生し、死者30人、負傷者44人の犠牲者が生じ、さらに翌44年2月5日には、福島県郡山市磐梯熱海温泉磐光ホテル火災が発生し、死者30人、負傷者41人の犠牲者を生じている。このように短期間に多くの犠牲者が生じたホテル火災が相次いだ。
昭和45年6月29日には、栃木県佐野市両毛病院火災が発生し、死者17人、負傷者1人の犠牲者が生じた。翌46年1月2日には、和歌山市寿司由楼火災が発生し、死者16人、負傷者15人の犠牲者が生じた。翌47年5月13日には、わが国の建物火災史上、最悪の犠牲者が生じた大阪市千日デパートビル火災が発生した。死者118人、負傷者81人、まさに大惨事であった。
昭和48年3月8日には、北九州市済生会八幡病院火災が発生し、死者13人、負傷者3人の犠牲者が生じた。さらに同年11月29日には、熊本市大洋デパート火災が発生し、死者100人、負傷者124人と、再びデパート火災による多数の犠牲者が生じた。
熊本市大洋デパート火災
(死者100名・負傷者124名)
(「郷土愛に燃えて 自治体消防40年の記録」より)
2度にわたっての死者100人を超えるデパート火災の発生。そして頻発する旅館・ホテル火災。こうした火災にいえることは、わが国の経済成長とともに大規模化したこれらの施設が、ややもすると火災に対する備えをおろそかにし、防火設備の未整備、防災意識の稀薄さによって生じた火災であったことである。消防は、こうした不特定多数の者が集まる施設に対し、いかに防災対策を講じていくか。大きな課題を突きつけられた時代である。
林野火災は、昭和40年3月16日、和歌山県西牟婁郡で林野火災が発生し、焼損面積2,022haの被害が生じた。また、昭和46年4月27日には広島県呉市林野火災が発生し、死者17人、負傷者1人、焼損面積340haの被害が生じた。この林野火災における死者17人は、すべて消火活動にあたった消防職員である。消防研究所の調査で、死亡した職員らは急斜面で消火活動にあたっており、急炎上(flare up)によるものと判断された。急炎上とは、斜面角度が40度を超えると、延焼速度が斜面角度30度以下のときの数倍速くなる延焼現象であって、昭和52年3月25日に発生した北九州市林野火災において、消火活動中の消防職員4人が殉職した事例もこの急炎上によるものであった。
車両火災は、昭和42年8月8日に新宿駅構内油槽列車火災が発生し、車両5両・積載していたジェット燃料75キロリットルが焼損する被害が生じた。翌43年1月27日には、東京地下鉄日比谷線火災が発生し、負傷者11人(消防職員3人を含む)、焼損車両3両の被害を生じた。さらに昭和47年11月6日には北陸トンネル内列車火災が発生し、死者30人、負傷者715人の被害が生じた。このトンネル内列車火災は、国鉄乗務員の初期消火の失敗、通報の遅れ、トンネル外で火災発生を覚知したにもかかわらず、トンネルに入って停車したことが災害を大きくした一因であった。
北陸トンネル内列車火災(昭和47年11月6日)
死者30人、負傷者715人
(「自治体消防四十年の歩み」より)
航空機火災は、昭和41年3月4日にカナダ航空機が羽田空港で炎上する事故が発生し、死者51人、負傷者8人の被害が生じた。
船舶火災は、昭和40年5月23日に室蘭港でタンカーの爆発火災が発生し、死者10人、負傷者10人の犠牲者が生じた。
さらに昭和49年11月9日には、東京湾でLPGタンカー火災が発生し、死者33人、負傷者34人の犠牲者が生じた。
危険物及び石油コンビナート災害
昭和40年10月26日には、西宮市第2阪神国道上のタンクローリー火災が発生し、死者5人、負傷者26人、焼損棟数40棟の被害が生じた。また、昭和45年4月8日には、大阪市地下鉄工事現場でガス爆発火災が発生し、死者74人、負傷者411人、焼損棟数31棟、焼損面積1,707平方メートルの被害が生じた。大都市における災害の危険性を明らかにしたものとして、社会の注目を集めた事故であった。
大阪市地下鉄工事現場ガス爆発火災
(昭和45年4月8日)
死者74人、負傷者411人
(「自治体消防四十年の歩み」より)
自然災害
自然災害は、昭和40年代も数多くの災害が発生し、多数の犠牲者、甚大な被害をもたらした。死者が100人を超える大きな風水害は6件発生している。
昭和40年9月に台風第23、24、25号の相次ぐ上陸、接近により全国各地で強風及び豪雨による災害が発生した。全国の被害は死者153人、行方不明28人、負傷者1,206人、家屋の全壊1,610棟、半壊3,529棟、流失269棟、床上浸水4万6,183棟、り災世帯数5万3,859世帯、り災人員22万4,672人であった。
翌41年9月には、二つの台風が二日連続して上陸し、山梨県足和田村の根場集落では大規模な山崩れに襲われ住民81人が生き埋めになる災害が発生した。また静岡県梅ヶ島村温泉郷では10戸あるうち8戸が全壊し、死者・行方不明26人の被害を生じた。この台風による全国の被害は、死者238人、行方不明79人、負傷者824人、家屋の全壊2,353棟、半壊8,431棟、流失69棟、床上浸水8,834棟、り災世帯数2万2,973世帯、り災人員9万1,824人であった。
昭和42年7月には、停滞していた梅雨前線に台風くずれの熱帯性低気圧の接近にともない西日本各地に大雨を降らせ、この雨により中小河川が多数氾濫し、また傾斜地に造成した宅地の崩壊及び土石流が発生し、特に兵庫県、広島県、佐賀県、長崎県に大きな被害をもたらした。全国の被害は死者102人、行方不明16人、負傷者152人、家屋の全壊136棟、半壊169棟、流失27棟、床上浸水1万7,213棟、り災世帯数2万2,155世帯、り災人員7万8,069人であった。
昭和43年8月17日には、岐阜県と京都府で局地的な集中豪雨が発生し、岐阜県加茂郡白川町内国道41号線を走行中の観光バス2台が、山崩れによる土砂に流され飛騨川に転落水没し、乗客104人が死亡又は行方不明となる事故が発生した。この集中豪雨による全国の被害は死者106人、行方不明13人、負傷者29人、建物損壊143棟であった。
昭和47年は、7月3日から15日にかけて梅雨前線と台風第6、7、9号のため全国各地で局地的豪雨が相次ぎ、甚大な被害をもたらした。全国の被害は死者421人、行方不明26人、負傷者1,056人、家屋の全壊2,977棟、半壊5,746棟、一部損壊1万6,549棟、床上浸水5万5,537棟、り災世帯数6万4,843世帯、り災人員23万4,652人であった。
昭和49年には、5月下旬から8月上旬までの間に断続的に発生した豪雨及び台風第8号により、死者145人、行方不明1人、負傷者496人、家屋の全壊657棟、半壊1,131棟、床上浸水7万7,933棟、り災世帯数13万6,549世帯、り災人員50万5,001人の被害が生じた。
一方、地震災害及び火山噴火災害については、他の時代と比べれば昭和40年代は発生が少なく、火山噴火に至っては発生はみられなかった。
昭和43年2月21日、えびの地震(M6.1)が発生し、宮崎県えびの町(現えびの市)真幸地区では震度6を記録した。この地震によって死者3人、住家の全壊368棟等の被害が生じた。
また、同年5月16日に青森県東方沖十勝沖地震(M7.9)が発生し、苫小牧では震度6を記録した。さらに同日、震度5の余震があり、この2度にわたる地震によって青森県、北海道、岩手県、宮城県、秋田県に被害が生じ、特に青森県では山崩れ、崖崩れ等が発生し、死者は47人に及んだ。この地震による全国の被害は死者52人、住家の全壊673棟等に及んだ。
十勝沖地震(昭和43年5月16日)
死者52人、家屋全壊673棟、家屋全焼18棟
写真は破壊された函館大学校舎
(「自治体消防四十年の歩み」より)
昭和49年5月9日には、伊豆半島沖地震(M6.9)が発生し、南伊豆町を中心に下田市、東伊豆町、松崎町、河津町の1市4町で山崩れ、崖崩れ等が発生し、死者30人、負傷者102人、家屋の全焼5棟、全壊134棟等の被害が生じた。