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宮澤清治の防災歳時記


ー 禍福無門(かふくむもん)の戒め ー

NHK放送用語委員会専門委員
元気象庁天気相談所長
宮澤 清治

阪神大水害から70周年を迎える

 1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まった。その1年後の昭和13年7月3〜5日、九州から低気圧が接近して活発になった梅雨前線は、神戸市内に集中豪雨を降らせた。3日間の雨量は市内で462ミリ、六甲山上で616ミリを記録した。
 5日早朝から猛烈な雨(1時間に61ミリ)が降り、市内のすべての河川が氾濫し、流木や岩塊が混じった土石流は100万人の住む市街地に流れ込み、一気に泥の海と化した。死者・行方不明者521人、流失家屋1,786戸、全壊家屋3,905戸に達する大災害となった。いわゆる「阪神大水害」である。来年(2008年)は70周年という節目の年に当たる。1995(平成7)年1月の阪神・淡路大震災(死者6,434人)とともに忘れることができない。

土石流が津波のように押し寄せた

 「被害の最も激しかった住吉川流域は、六甲山ろくの山崩れにより幾百貫、幾千貫(1貫は約4)の岩石・巨木などが幾百となく散乱し、惨たんたる光景を呈した。
 上流の堤防5か所が決壊して、津波のように押し寄せた激流は、西岸の住吉村、観音村及び東岸の本山村、野寄一面をひと呑みにし、住友吉右衛門、安宅弥吉らの名士宅を一瞬のうちにぶち壊した。ことに住吉邸は倉庫と母屋を残すのみで、ほとんどが全半壊となり、邸内には付近の人々の死体が流れ込むなどの惨状を呈した」(東京朝日新聞6日付)
 上昇気流の生じやすい急斜面の山地と、それをつくる風化の進んだ花こう岩地、加えて山ろくの扇状地に位置する神戸市街地とみると、この地域の土砂災害の発生条件はそろっていた。

写真1 住吉川(正面は六甲山、神戸市東灘区)

「禍福無門」の戒め

 (財)住吉学園(神戸市東灘区住吉町観音林1875ー3)の庭園の東北隅に大きな水害記念碑がでんとすわっている。この付近は災害の最も甚だしい所であった。堆積した岩石を積み重ねて碑を築き、上部には約30トンの巨石を据えた。高さは水害時の水位と同じくした。

写真2 水害記念碑(住吉学園内)

 碑文に次のようにある(一部原文のまま)。ー昭和13年7月5日午前9時30分連日の降雨に加うるに朝来の一大豪雨は、六甲背山を削りて見るも恐ろしき山津波を起こし、住吉川畔一帯を初め、ほとんど全村にわたり、濁流土砂奔馬の如く荒れ狂い狂瀾怒濤幾千貫の巨岩唸りを生じて飛びその凄惨な光景は慄然として言語を絶す。
 かくしてこの未曾有の水魔は時余にして33の精霊を呑み流失全壊の家屋百有余全村の7割2,700戸に多大の災禍を与へ、文化を誇りし住宅街も一朝にして土砂堆積し巨岩積み重なった荒野と化せり。
 凶報上聞に達するや畏くも7月10日侍従を御差遣遊ばされ、かつ多大の内帑を下賜せらる。ここに稀有の惨禍を記念し至尊の鴻恩を銘し惨害の現状の一部を当時のままに遺し親しく惨状を視察せられし末次内相の偏額を流岩に刻し以て永く後の世の鑑戒たらしめんとす。
 昭和14年12月 武庫郡住吉村建之ー

 惨状を視察された内相の末次信正海軍大将は、「禍福無門」と揮ごうされ、上部の巨岩に刻んだ。
 「禍福門なし、ただ人の招く所」という室町中期の言葉の前半を書かれたものである。言葉の意味はこうだ。
 幸せも不幸も特別な門があって入ってくるわけではない。みな当人が招くのである。その人の心がけ次第で、幸福にもなり、災いにもなるのだから日々の行いは深慮すべきであるという戒め。
 水害を例にとれば、山の木を乱伐して坊主山にすれば水害が入ってくる。反対に山に植林して水源を涵養すれば美田が出来て豊作が入ってくる。禍福の原因を自らの行いに求め、常に反省を怠ってはいけない。
 崩壊した六甲山腹斜面の植林は、戦後も継続して行われ、昭和40年代の初めには六甲山地の裸地に対する植林はことごとく終えた。
 災害は意地悪だ。一度あったことが二度、三度と繰り返す。1967(昭和42)年7月9日、梅雨前線上を熱帯低気圧が突っ走り、佐世保・呉・神戸の各都市を土石流が襲った。神戸市では1時間76ミリの猛烈な雨が降り、六甲山系で山崩れが2,500か所余も発生した。市内の死者が92人だったのは、阪神大水害以後の治山、砂防対策の進展が効果を奏したといえる。