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宮澤清治の防災歳時記

初夏の大霜害に泣いた農民

NHK放送用語委員会専門委員
元気象庁天気相談所長
宮澤 清治

村民ともども謹んで歎願奉り候

写真1 茶畑の防霜ファン
(静岡県沼津市)
  1893(明治26)年5月6日、初夏を迎えようというのに前夜から北風が吹き気温が低下、明け方には各地で霜が降り、薄氷の張るところも出た。最低気温は長野で氷点下1.8℃(5月として歴代1位の低さ)、東京で3.5℃、金沢で1.8℃などだった。
  この時ならぬ降霜は、中部から東北地方に広がり、特に埼玉県は青々と葉をつけた桑と茶が2、3日で眞っ黒。広大な畑はまるで冬枯れの野のようなありさまを呈した。被害面積は1万2千ヘクタール、被害農家7万4千戸と県下全域にわたり、空前の大被害となった。
  同県大里郡花園村は、田が少なく、養蚕に活路を見出していた。前年は春秋蚕とも不成績だったが、この年は糸価が非常によいので、失敗をばん回するために全力を養蚕に注いだ。例年に比べて多量の肥料を購入、蚕室拡張、蚕具新調などに費用をつぎ込み、村人は収穫の期待に満ちていた。
  そこへ突然の大霜で桑葉が枯れ尽くし、青葉は一枚もなくなった。二齢に達していた蚕はとたんに食糧を失い、3日間というもの、農民は驚きのあまり何もできなかった。
  時がたつにつれて惨状がはっきりしてきた。蚕の被害は秩父、大里などの各郡で大きかった。茶は入間、高麗などの各郡でひどく、まさに全滅の状態だった。
  霜で桑葉の値はピンと上がり、買うことは不可能になった。そのうえ、大、小麦も不作、茶園も全滅。返金の見込みのなくなった農家に金を貸す者はひとりもいない。「仰ぎ願わくは閣下、資力尽きたる養蚕家に非常の救護を給わりたく人民一同泣血歎訴奉り候」と、村民全員連署の訴状が各地から県に寄せられた。
  県は、被害窮民を救済するため、3万円を支出することに決めた。涙ばかりの補助だが、それでも“飢え”への転落にいくらかブレーキをかけた。

天気予報組合が結成された

写真2 熊谷地方気象台の観測場所(露場)
  明治26年ごろは、絹糸は輸出の花形商品で、現金収入の少ない農家にあっては、数少ない換金作物であって、養蚕は全国的に普及していた。
  この大霜害にかんがみ、埼玉県は翌27年1月、各郡の養蚕者に霜害予防組合を結成させた。組合員がワラを持ち寄り、降霜の恐れがあるときはワラを焼き、その煙で霜を防いだ。今でいう自主防災組織の先駆けと言える。
  このごろ、同県児玉郡松久村広木(現・美里町)では有志者が資金を出し「天気予報組合」を設けた。東京の中央気象台(現・気象庁)に毎日午後4時、電報にて天気予報の通報を依した。期間は5月2日から6月11日までとし、霜が予想されるときは、組合員が村中を怒鳴って歩いたり、信号旗を掲げたりした。この天気予報はすこぶる好評で、十分な注意と安心が得られたので、村民一同喜んだ。
  地方気象台の前身の測候所が熊谷に設置されたのは明治29年で、霜に敏感な養蚕家の配慮のたまものだった。すでに組合がひと足先に天気予報を中央気象台から直接受けて、防災に利用していた。

静かな災害ー遅霜に肩を落す

  2002(平成14)年6月25日、オホーツク海から寒気が流れ込み、北海道で霜害が発生した。最低気温は上川支庁の上川で氷点下1.3℃、十勝支庁の糠平で氷点下1.4℃。
  「あんな強い霜害は初めて。朝方に霜が来たなと思ったら午後には豆の葉が眞っ黒になってきた」と農家の人は話す。てん菜も葉枯れの被害を受けたが、その後の生育でなんとか持ち直した。小豆は全滅。
  「小豆はすべて廃耕にした。大豆は持ち直すのではないかと、暇があると草刈りをして肥培管理を続けた。このままでは秋の収穫は望めないかもね」と、がっくり肩を落した。
  霜害は気象災害の中では人命や家屋の損失を受けるような激甚なものではない。しかし、昔も今も変わらない、静かに襲う災害である。

〔参考文献〕
毎日新聞浦和支局編(1968):埼玉県の明治百年(下)。