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防災講演録

防災講演録


防災講演録(4)
富士山宝永大爆発ー災害と復興の社会史ー


永原 慶二
(一橋大学名誉教授・和光大学名誉教授)


この講演録は学士会会報2002ーIV(No.837)より転載させていただきました。

<はじめに>

「宝永の噴火」として知られる富士山空前の大爆発は、江戸時代の中ごろ、赤穂浪士討入りの5年後にあたる宝永4年11月23日(1707年12月16日)に起こりました。それから今日(2002年)まで、300年近くに及ぶ静穏が続いておりますので、富士山もそろそろ危ないのではないかという予感が人々の心をとらえ、不気味な話題となっています。「富士山宝永大爆発」という演題だけをご覧になると、爆発そのものについての火山学的な話のようにお受け取りの方もいらっしゃるかもしれません。しかし「災害と復興の社会史」と副題をつけましたとおり、私は地震学や火山学には無知な歴史研究者ですから、本日はこの空前の巨大自然災害様相と、その復興に対して藩や幕府、すなわち当時の公権力、あるいは被災地住民がどのように取り組んでいったかという、災害の社会的側面についてお話し申し上げたいと思います。
被災地住民の飢餓・流亡は爆発のその日から始まりました。他方では藩と幕府、役人と商人とのあいだの権力と金をめぐる駆け引きも微妙かつ活発となり、そのようななかで被災地民は、時には村と村、時には一つの村のなかでさえ対立し、人間不信に陥りながらも、不屈で息の長い復興のたたかいを繰り広げてゆきました。「亡所やむなし」という藩側の政治判断と、土地を守り抜こうという農民の執念と底力との対決でもありました。
駿河東部・相模・武蔵にわたる被害の大きさはケタ外れで、すべての大地を火山砂が覆い尽くす一次災害、それが連鎖的に引き起こした酒匂川の大洪水という二次災害、さらにそれらに触発されたさまざまな社会的矛盾・人災等、すべては想像を超える規模だったのです。

一 前兆・大爆発・災害
宝永4年11月23日(以下ことわらないものはすべて当時の陰暦による日付)に起こった大爆発は、現在も富士山の中腹東南斜面に巨大な噴火口を残し、その脇が盛り上がって宝永山となっています。爆発は溶岩を噴き出すという性質のものではなく、山腹が突然大爆発を起こして山体をえぐり取るように吹き飛ばすかたちになりました。そして半月後の12月8日まで噴火を続けました。その後は、この大爆発でエネルギーを発散してしまったためか静穏になり、噴煙も幕末ごろを最後に見られなくなって今日に至っています。
では、この大噴火の予兆はなかったのかということですが、これに関しては、地震学者が噴火と地震との関連に注目して研究を続けています。宝永の大爆発の4年前、元禄16(1703)年11月にマグニチュード8.2といわれる巨大地震が関東地方で起こり、小田原から御殿場方面で大被害が生じました。続いて、噴火の1カ月半ばかり前の宝永4年10月4日には、東海・南海・西海道の広域に、マグニチュード8.4という最大級の地震が起こっています。これらの地震は極めて巨大で、この二つの大地震と大噴火との関連性はほとんど疑う余地がないと、地震学者は考えているようです。
噴火口は楕円形で、長径1.3キロメートル、短径1キロメートル、深さおよそ1キロメートルにも達しました。およそ10億立方メートルの山体が吹き飛び、噴出した砂は岩石まじりで、噴火当初はフットボールぐらい、次第に桃の実くらいに小さくなり、やがて小豆粒大になったと伝えられています。砂といっても川砂とは違い、相当に大粒なものであることは、現在でも御殿場方面の至るところに残っている砂からも見てとれます。このような岩・砂が一挙に吹き上げられ、偏西風に乗って東の方向に流れていったのです。
地図に噴火口を●印で示しました。火口に近い御殿場市の北部あたりから、現在は小山町に属する須走村が最も噴火口に近い東方面の集落で、そのあたりでは砂の深さは2メートル前後に達しました。それからさらに東に続く地図の「小山」と書いてあるあたりが小山町の中心部ですが、その辺までが最も積砂が深く、1〜1.5メートルほどにもなりました。風向きの関係でやや浅い御殿場市北西部あたりでも1メートルぐらいだったことが確認できます。見渡す限り噴火砂が積もって黒一色の世界になったわけです。


降砂はさらに、西丹沢方面(現在の丹沢湖のあたり)から東は足柄峠を越えて現在の南足柄市・開成町や小田原市の東部を覆い尽くしました。酒匂(さかわ)川が富士山の湧水を集めて流れ出し、次第に支流を集めて小山町の下手で相模に入り、現在の山北町のあたりで渓谷から平地に流れ出ています。その出口のところにある大口堤(おおくちつつみ)で、堤切れが起こりました。肥沃で生産力の高いこの酒匂川扇状地にも砂が50〜70センチメートルくらい降り積もり、上流から流れ出した大量の砂も加わり下流の川底を上げ、流れを止めるかたちになったわけです。噴砂はさらに東方に幅を広げながら広範に飛散して、秦野のあたりで40〜50センチ、藤沢や横浜で20〜30センチに達し、江戸の町々にも及びました。新井白石が自叙伝『折たく柴の記』のなかで、江戸の様子を明瞭に記しております。
御殿場市および小山町の地域は、古くは「鮎沢の御厨(みくりや)」といっていました。御厨とは伊勢神宮の荘園のことです。これが現在でも御厨という広域地名になって使われているのです。酒匂川の扇状地である足柄平野は足柄上郡・下郡からなり、足柄地方といいます。災害の主要な地域は、御厨地方と足柄地方でした。
石高は御厨地方がおよそ1万2千石、足柄地方ははるかに多く、およそ4万8千石ありました。どちらも小田原藩領です。小田原藩は全部で10万3千石の領地規模でしたが、そのうちの小田原周辺の城付領が足柄平野です。そして足柄峠を越えると御厨地方ですから、小田原藩にとっては全領の6割にあたる最も重要な領地が災害地になったわけです。
積砂が20センチ以上になると作物は枯れてしまいます。ちょうど麦を植えた時期でしたから、すべて枯れてしまいました。御厨の深砂が富士の裾野と箱根外輪山の外側の裾の谷間を流れる酒匂川に大量に流れ込み、長期にわたり酒匂川下流の川底を上げてゆきましたので、氾濫が繰り返し起こりやすい状態になりました。噴火の翌宝永5年7月の大氾濫で川筋が変わってしまい、それからさまざまな問題が発生する結果となりました。御厨地方は深砂そのものの災害、足柄地方は積砂と洪水の複合災害で特徴付けられると思います。
そこで、問題を三つに分けてお話ししたいと思います。第一は、藩および幕府がこの事件に対してどう対応したか。第二は、御厨地方や足柄地方の災害はどのような社会問題をもたらしたか。第三は、復興の原動力は何であったか、ということです。

二 地元の救援要請と藩・幕府の対応
噴火が起こると、直後から深刻な食糧問題が生じました。噴火の期間は11月23日から12月8日です。この時、大部分の年貢米はすでに納められて現地の領主側の蔵に納められています。農民にとっては、現地にあっても封印された状態になっているわけです。麦は夏に収穫しますから、すでに食べ尽くしてしまっていなくても、もう残り少なくなっています。御厨地方のような富士山麓の地域は周囲が山々に取り囲まれていますから、もともと手許に確保できる穀類は不足で、炭や薪、あるいは藁で作った草鞋や莚(むしろ)などといった諸雑品を商人に売って穀類を手に入れ、ようやく生計をたてています。また、須走は静岡県側の最北の村で、峠を越えると山中湖に至る交通路ですから、荷物を輸送する駄賃稼ぎという馬曳き商売で貨幣収入を図り、その金で雑穀を買ったりして食いつないでいるわけです。それも爆発で不可能になりました。馬は秣(まぐさ)も無いので真っ先に売り払われました。もともと御厨地方は食糧不足が慢性化している地域でしたから、すぐさま厳しい飢餓におそわれました。
足柄地方でもまず食糧問題で、地元農民は噴火の直後から、御救夫食米(おすくいぶじきまい)(救済の食糧)支給の請願運動を始めました。足柄地方は小田原の地元という地理的な利便がありますので、百カ村以上の被災地民衆がすぐに行動を起こしました。しかし藩主の大久保忠増は老中として江戸勤務のためなかなか交渉は捗りません。御厨地方は砂が深いので動きが取れず、訴願行動の開始はずっと後になりました。小田原藩の経済・財政は噴火の前に二つの大地震に見舞われていましたから、すでに疲弊し切っていました。小田原城も崩壊していますから、藩は膝元の城下や城の修復に追いまくられており、被災地域への対応能力は残っていなかったのです。
足柄地方の民衆は藩の無力ぶりをすぐ見すかして見切りをつけ、幕府に直接願い出ようとします。江戸に集団で願い出れば一揆強訴と見なされ藩は取り潰されてしまいますから、藩側は危機意識を強めて、訴願集団を何としても小田原藩内から出さないことだけに一所懸命になっていました。それでも足柄の地元百カ村以上の村々の住民は各地で集会を開き、その規模は5000人を超え、小田原藩役人の制止を聞かず、集団で江戸に訴願に行くことになりました。これを聞いた藩主は次々に使を出し、それを途中で止めようとしましたが、品川まで来たところで江戸藩邸からの使者がその場しのぎの二枚舌でやっとこれを食い止めるといった状況でした。
小田原藩は噴火が止んだ2日後の12月10日になって、ようやく江戸から検分使を現地に派遣します。御厨地方を巡検するため途中(たぶん足柄峠・竹之下あたり)まで行ったところで、見渡す限りの黒一色の世界におどろき、これはどうにもならないと引き上げてしまいました。もっとも深刻な被害を受けた御厨地方の村々民衆に対しては「亡所やむなし、縁を頼ってどこにでも移れ」といい残します。つまり廃村やむなしということです。おどろくべき投げやりな態度です。
それでも幕府の対応はいささか違いました。東海道吉原の宿場役人から、江戸の東海道管理担当である道中奉行にすぐ第一報がきましたので、幕府は噴火の翌日には被災地に検分使を出して状況をつかんでいました。しかしながら、その後の対応は遅れ、幕府としての基本方針が決まったのは翌年の宝永5年閏1月3日のことです。対策の第一は、小田原藩領のうちの被害の大きい足柄地方と御厨地方合わせて6万石ばかりを全部幕領に切り替え、藩には別な土地を与えるという決定です。伊豆・美濃・播磨等に散在する幕領のなかから代替地が与えられました。幕領でないと、幕府が公金を投入したり、他藩に「御手伝普請」をさせたり、することができない慣習になっていましたので、幕領にしたのは理があると思います。
そのうえで第二に、4日後の1月7日、関東郡代伊奈忠順(いなただのぶ)を砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行という災害対策の最高責任者に任命します。関東郡代とは関東地方の幕府領の管理者です。伊奈家は代々、検地や治水その他土木事業を専門能力としておりますので、この方面の知識技術を十分に蓄えている人物です。この人が担当者に任命されたのも筋の通ったことといえるでしょう。
第三に、幕府は同日、幕府領・大名領一切を含め、全国から石高百石について金2両という割合で高役金を徴収することにしました。高役金とは検地によって定まっている石高に応じた臨時課税です。公儀の力はすごいもので、高役金は指定された6月の締め切りに、48万両余が納入されました。幕領・私領を含む全国の石高は2千5百87万石余ですから、百石未満の藩と寺社領の免除分を考慮すれば、ほぼ100パーセントの納入率です。この高役金は災害救済の原資に当てるべきものですが、後に述べるように、実際はあまり使われなかったのです。
と同時に、第四には、幕府領にした被災地に対し、岡山藩など5藩に「御手伝普請」を命じました。御手伝普請では、その藩の役人が多少は現地に行って現場管理のようなこともしますが、実際には工事を直接行うのではなく、費用を出させるのです。
幕府の財政担当は勘定奉行で、この時は荻原重秀でした。荻原は金貨の品質を切り下げて、差益を握った男としてよく知られていますが、彼が一切を牛耳って江戸の町人に土木工事を請負わせました。入札ということになっていますが詳細はわかりません。こうして酒匂川治水工事はすべて町人請負というかたちでひとまず態勢を整えました。
一方、御厨地方の積砂は1〜2メートルもありました。2メートルというと、農家の軒に近づくほどです。雪が積もるのと同様に、二昼夜ぐらいの間に、一挙に砂が積もってしまいましたので、どうにも動きのとれない状態になったということは十分考えられます。
そうなると、その後に生じることは、道がわからなくなって交通が困難になります。いちばん厄介なのは、耕地の境界が不明になったことです。自分の田圃や畑も、畦畔がわからなくなるから再開発をどこからやるのかもむつかしくなります。水路も破壊され、用水関係もわからなくなってしまうことになります。そのうえ御厨地方では、薪炭林採草地も砂に埋まってしまいましたから、燃料もなく、副業の炭焼もできず即座に生活ができなくなりました。この地域では家の数を上回るほどの馬を飼っていました。それらの馬は農耕馬であると同時に、須走から山中湖へ抜ける道の駄賃稼ぎにも使います。また仔馬も生ませました。しかし秣がなくなってしまったので手放すより他ありませんでした。御厨地方は須走では海抜800メートルほどですから、気温は相当寒く、薪炭が必要です。草は肥料にもなくてはなりませんが、山野の植生が回復しなければどうにもなりません。こういったことは従来あまり気づかれておりませんでしたが、史料を長期間にわたって見ますと、これは大問題でした。
私が『富士山宝永大爆発』(集英社新書)を書くきっかけになったのは、たまたま同じころ自治体の委嘱を受けて、『小山町史』と『小田原市史』の編纂をすることになり、この地域の古文書を広く読んだことです。個々の旧家に保存されている古文書は大量にありますが、宝永噴火の前と後とを比べてみると、たとえば深砂地帯における大御神(おおみか)村の場合、噴火前は39戸でしたが、噴火直後には20戸になり、さらにその後も徐々に減少していって14戸で固定します。明治・大正から戦後まで、14戸に止まっていました。おそらく残ったその人たちだけで村を固定したのだと思います。一度外に流出した家は戻って来たくても戻れないのです。それは再開発に関係があります。再開発は残留者が手のつけやすいところから進め、旧所有関係とかかわりなしに使っていたからです。従来の調査は、積砂が何センチであるというような事実を主として問題にしていましたが、その災害がどういうかたちで被災地民の生活に打撃を与え、どのような困難を生み出し、再開発といってもそれがどのくらい長くかかったかということこそが、大事な点の一つであると私は考えます。

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