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3. 津波災害の歴史から現代を見る -南海地震の津波災害-

東京大学地震研究所 助教授  都 司 嘉 宣

1.南海地震系列の海溝型巨大地震

  四国・紀伊半島の南岸沖の太平洋の海域には100年前後の間隔で一連の「南海地震」と呼ばれる海溝型の巨大地震が起きている。日本列島の西半分を載せるユーラシアプレートの下に、南から北上して来て潜り込もうとするフィリピン海プレートの両プレートの境界面の「こすれ」として起きる「プレート境界型巨大地震」である。その最古の記録は、「日本書紀」に記された684年の「白鳳南海地震」であるが、それ以来昭和21年(1946)年の「昭和21年南海地震」まで、8回の南海地震の記録が残っている。江戸時代前期の宝永4年(1707)10月4日に起きた「宝永地震」と、幕末の安政元年(1854)11月5日に起きた「安政南海地震」については、とくに多くの史料が残されている。
  将来もまた、同じように100年前後の年代間隔で南海地震が再来することはほぼ確実である。前回の南海地震は1946年であったため、2003年の現在はまだ57年を経過しただけである。したがって、今日明日直ちに次の南海地震が起きるという見解には賛成しにくいが、現在から約30年を経過した、2030年から2040年のころに次の南海地震が起きるのではないかというのが、すなおな歴史史料からの解釈ということができるであろう。これが、永年歴史地震研究をしてこられた宇佐美龍夫元教授(東大地震研究所)なども述べられているところである。
  実は前回の昭和南海地震は、南海地震としては小粒であった。このため「再帰性地震の時間予測可能説」の考えにたてば、次回までの間隔は、平均100年強より縮まる可能性があり、このことを考慮して次回は前回より90年前後経過したころ起きるとすれば、上のような結論になるのである。

2.南海地震と津波

  南海地震は、海域で起きるマグニチュード8.0かそれ以上の規模の巨大地震であるので大きな津波を伴っており、四国・紀伊半島を始め、東海地方以西の日本列島の太平洋海岸に津波の被害をもたらしてきた。南海地震による人間社会への被害は地震動そのものによる以上に、津波の被害が大きかった。昭和21年の南海地震では、和歌山県田辺市の新庄地区、徳島県海南町浅川地区、高知県須崎市などに大きな津波による被害の爪痕を残した。これらの地域で、津波の浸水高さは標高5m前後に達した。いずれもV字形の湾の最奥部に人口の密集した集落のある場所であった。これらの場所にはいずれも津波の記念石碑が建てられていて、津波の浸水高さが示され、将来再び起きるであろう南海地震の津波に対する子孫への警告の役目を果たしている。
  地震にはそれぞれ地震の「クセ」があるが、南海地震にもまた次のような特有の南海地震のクセがある。
(1) 南海地震は東海地震と近い時期に引き続いて起きることが多い。
(2) 室戸岬、足摺岬、潮岬など、南に突き出た岬の先端部で近くの隆起が起き、小松島市、高知市など半島の根元の海岸では反対に地殻の沈下が起きる。
(3) 大きな津波を伴う。
(4) 愛媛県松山市の道後温泉、和歌山県白浜温泉、湯の峰温泉などの温泉の湧出が一時的に止まる。
などである。これらの「クセ」から考えると、来るべき南海地震に対する備えとしてもっともよい教材は、過去の南海地震の記録であって、過去の南海地震の実態を調査することによって将来の南海地震に対する有力な防災上の対策を立てる手がかりが得られる。これはその通りなのだが、じつはここに大きな落とし穴があるのである。その事情を、節を改めてみておこう。

3.昭和21年(1946)南海地震は小粒の南海地震だった

  「南海地震は100年あまりの年代間隔で繰り返して起きている」という文章だけ見れば、毎回同じような規模の同じような性質を持った南海地震が単純に繰り返しているような錯覚にとらわれる。しかしながら、一番新しい時代に起きた三度の南海地震、すなわち昭和21年南海地震(1946)、安政南海地震(1854)、宝永地震(1707)を比較すると、それらの間にはかなりの規模の差があったことが知られる。昭和南海地震が一番小さく、安政南海地震が中程度、宝永地震が大型の南海地震であったことが知られるのである。その一つの表れとして、西日本各地での津波の浸水高さの分布図を見ておこう(図1)。
  白丸は昭和南海地震の、黒丸は安政南海地震の、X印は宝永地震の津波による各地の浸水高さである。この図を一見して明らかなように、昭和南海地震の津波より安政南海地震の津波が、さらにそれより宝永地震の津波がより標高の高いところにまで海水が浸水したことがわかる。
  さらに、図2は、この3度の津波による、高知県の沿岸の各集落の津波被害の程度を表している。昭和南海地震の津波による家屋流出を多数出した重大被害は、須崎市の市街地、土佐市宇佐、高知港内の限られた集落にとどまっていた。しかし、安政南海地震では、より広範囲の集落に及び、宝永地震の津波では、太平洋に直接面したほとんど全部集落に重大被害を生じたといってもよいほどである。土佐藩の記録「谷陵記」には集落ごとの津波被害の程度が克明に記録されているが、非常にしばしば「亡所。潮は山まで」の記載が見られる。この記載は津波のために、集落全体の家屋が流され、あとに何も残らなかったことを示す記載である。宝永地震の途方もない巨大さが見えてくる。
  宝永津波が巨大であってことを示す例として、高知県須崎市の神田諏訪神社の流失記事を挙げておこう。明治の初期に、高知県の神社の調査が行われ、「高知県神社明細帳」というかなり分厚い報告書が作られた。その中の各神社の記録を見てみると、しばしば「宝永の亥年の大潮に流失」というような記載が見られる。その神社が宝永地震の津波によって流されたという記録である。須崎市の神田(こうだ)、すなわち江戸時代の神田村赤ハケの諏訪神社が流されたという記載も、そのうちのひとつであった。数年前、須崎を訪れる機会を得て、神田の諏訪神社があったという赤ハケの現地を訪ねてみた。赤ハケとは、酸化鉄を含んだ赤い粘土が露出しているところという意味で現地では今でもこの呼び名が残っていた。その現地とは、細長く他に筋に沿って伸びた神田の集落の一番奥に当たるところで、その場所からは海なぞ到底見えない。海とはまったく無縁とも思われる場所であった。その標高は海抜17メートル。ここで神社が流されたというのであるから宝永の津波はこの付近で標高18メートル以上の所にまで達していたことになる。宝永地震の津波の巨大さの一端を示すものであった。
  次の南海地震の規模が、昭和南海地震(1946)の規模程度であるとは限らない。むしろ南海地震の標準サイズと見られる安政南海地震(1854)程度のものが来るものと考えるべきであろう。このことを、大阪について見ておこう。

4.大阪を襲う南海地震の津波

  紀伊水道沖の震源域を発した南海地震の津波は、地震発生後約2時間を経過して大阪に達する。いま、大阪に住んでいる人は、南海地震と聞いて、どう感じるであろうか?いま60歳以上の人ならば昭和21年の南海地震を実体験し、記憶している人も大勢いらっしゃることであろう。その大部分の人はこういうに違いない。「南海地震?うん、よく知っとる。ありゃたいしたことあらへん。大阪では、確かに揺れは強めに感じたけど、並みの地震のちょっと強い方や。家も塀もほとんどなんともない。壁にちょっとひびが入った位や。津波?大阪で津波の被害は聞いたことないなあ。次の南海地震が2030年から2040年に来る?あの南海地震がまた来るのか。けど大阪ではたいしたことないやろ。何しろ昭和21年のがあんなもんやったんやから。心配することあらへん」と。
  本当にそうだろうか?じつは昭和21年南海地震の大阪の震度は4で、揺れによる家屋などの被害はほとんどなかった。津波はあるにはあったが、大阪港で水位が80センチほど上昇しただけ。漁船7隻に小被害を生じただけにとどまった。まあ、大阪全体として津波被害は微々たるものであった。ところが、1周期前の幕末の安政南海地震(1854)の被害はこれよりはるかに大きかった。
  大阪環状線の大正の駅を下りると、そこは木津川から西に尻無川、東に道頓堀が分岐する川の十字路に当たっている。その合流点の木津川のすぐ上流にあたるところに大正橋がかかっている。その橋のたもとに「大地震両川口津浪記」と題した石碑が建っている。この石碑がたてられたのは安政二年(1855)七月とあるので、安政南海地震の九ヶ月の後にたてられたものである。石碑の前面には、大阪の町を襲った安政南海地震津波の様子が書いてある。五日申の刻大地震、家くずれ出火もあり。前日の安政東海地震の揺れから引き続いて「老少多く小船に乗」っていた。それから約2時間たって日暮れごろ、津波が堀に進入してきた。「山のごとき大波」は多数の大小船のとも綱を切り一気に川上に運び上げ、船は道頓堀にかかる橋に次々衝突して橋を落とし、船は橋の手前で転覆し、避難している人を投げ出した。そうして、あとからあとから押す寄せる大小の船はその上に折り重なっていった。こうして大阪全体では津波に巻き込まれて341人もの死者を生じた。碑文はさらにこう続いている。「いまから百四十八年前、宝永四年(1707)十月四日の大地震の時も船に避難した人が大勢津波によって溺死したということである。いま、同じ場所でおおぜいの死者を出した。痛ましいことである」。この文には、先祖から伝えられた147年前の宝永地震のときの教訓を生かすことができず、地震の避難のために船に逃げるという同じ過ちを繰り返して、むざむざとおおぜいの溺死者を出した、その悔しさがにじみ出ている。そこで、石碑の文はこう続けている。すなわち、「将来、また同じようにまた大地震が来ることもあるであろう。そのときは地震のあとにはいつも津波が来ることを心得ていて、決して船に乗って避難しようとしてはいけない」というのである。そうして、こう締めくくっている。「この石碑の文が将来にわたっていつも読みやすくするために、この近くに住んでいる人は毎年墨を入れ直しなさい」。子孫に向かって将来の地震と津波の犠牲者を出させまいと、必死の意気込み感じられる。また、石碑の字をいつまでも読みやすくするよう毎年墨を入れよと周辺の住民に命じている。その周到な用意には感心させられる。南海地震が来ると、大阪は津波に襲われるのである。この教訓を大阪に住む人は重く受け止めるべきである。
  筆者は最近も、大阪を訪れ、大正橋を訪ねた。石碑には見事に墨が入れられ、この近くに住む人がきっちりこの石碑を製作した先人の意志を守っていることを好ましく思った。しかしながら、大正橋のあたりの道路は、橋のところで一番高く、両側の陸地はかえって下がっていた。地下水くみ上げによる地盤の沈下のせいであろうか。さらに、道頓堀をさかのぼった難波の市街地には幕末にはなかった地下街が張り巡らされていた。現在の大阪の町は幕末のころより津波にたいしてむしろ危険なのだ。
  ひょっとして・・・。筆者の杞憂に終われば幸いなのであるが、あるいは大阪にいま住む人は、大正橋の石碑を建てた先人の警告と周到な心遣いになんら報いることなく、三度目の同じような過ちを繰り返すおそれはないであろうか?


図1 1946年南海地震、1854年安政南海地震、
1707年宝永地震による津波の高さ分布

新宮より東は、1946年の南海地震
津波の高さのみ示した。


図2 南海地震津波の被害図(間城龍男作画)