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1. 洪水ハザードマップの効果と今後の課題

群馬大学工学部建設工学科
 助教授 片 田 敏 孝


1.はじめに -水防法の改正と洪水ハザードマップ-

 平成11年の福岡水害や平成12年の東海豪雨災害など都市型水害の多発を受けて,平成13年7月に水防法が改正された。この改正のポイントは,々馘攜鯆迷膺辰鵬辰┐董た靴燭謀堝刺楔知事が洪水予報河川を指定し洪水予報を行うこと,洪水予報河川については,国土交通大臣または都道府県知事が浸水想定区域を指定し,想定される浸水深を市町村長に通知すること,市町村は浸水想定区域ごとに,洪水予報の伝達方法,避難場所などを地域防災計画において定め,それを住民に周知すること,の三点であり,総じて言うなら洪水避難に関わる情報提供の拡充が図られたということになろう。
 特に洪水ハザードマップについては,都道府県管理の河川にも作成の範囲が拡大されたことに加えて,上記によって実質的に市町村に作成が義務づけられることになったため,今後,多くの市町村で洪水ハザードマップの作成が進められることになる。そこで本稿では,これから作成される洪水ハザードマップがより効果的に作成・公表されるよう,これまでに確認されている洪水ハザードマップの効果と問題点を紹介するとともに,洪水ハザードマップに対する住民の理解特性をふまえて,洪水ハザードマップを地域防災にどのように役立てるべきかについての私論を述べる。

2.洪水ハザードマップの目的と作成の背景

 洪水ハザードマップは,洪水発生時に想定される浸水深や避難に関する情報を地図にまとめたものであり,洪水氾濫の発生を前提に,住民の避難を促すことで人的被害を軽減することを主な目的としている。1994年の建設省(現国土交通省)通達に始まった洪水ハザードマップの作成・公表は,2002年6月現在で173市町村に達しており,水防法の改正を受けて今後さらに作成・公表が進むものと思われる。
 このような洪水ハザードマップも今日まで何の問題もなく作成が進められてきた訳ではない。建設省通達があった当初は,洪水ハザードマップに示される浸水情報が不動産価格に影響を及ぼすことや,それによって土地所有者から苦情が寄せられることを危惧した市町村が多く見られ,それが洪水ハザードマップの作成・公表を躊躇させる要因となった。しかし,市町村が危惧したそのような事態は,筆者の知る限り今日まで報告されておらず,市町村の危惧は杞憂に終わったと言って良い。
 洪水ハザードマップの作成は,洪水氾濫を前提にしていることにおいて,従来の河川行政の転換を象徴している。明治29年制定の旧河川法から昭和39年制定の新河川法を経て今日まで,我が国の治水は一貫して洪水の河道内制御を目指してきた。すなわち洪水は市街地に氾濫させないことを前提として,堤防整備などの治水事業を推進することで氾濫防止を目指してきた。それにより洪水氾濫の頻度は確実に低下し,治水事業は大きな成果を上げてきた。そして,急峻な河川が多いことから,それであっても毎年のように生じる洪水氾濫に対しても,より一層の治水事業の推進をもって対処するよう努めてきた。
 しかし,近年のいわゆる都市型水害の頻発を受けて,危機管理の観点から「氾濫した場合」を念頭においた,より現実的な超過洪水対策の必要性が認識されるようになった。洪水ハザードマップはその具体的対応の中心に位置づけられるものであり,次のような観点からも整備の必然性があった。
ダムや堤防などの構造物による洪水対策は,莫大な費用と時間を必要とする。この対策を完了するまで間,何らかの有効な洪水氾濫対策を検討する必要があった。
一般に治水事業は,100年に一度の豪雨を想定外力としている。したがって,この想定を越える豪雨が発生した場合は,例え治水事業が完成していても洪水災害の発生を止めることはできない。それゆえ想定外力を越える豪雨への対策(超過洪水対策)を検討する必要があった。
堤防の建設などによって浸水頻度が低下した地域では住宅や工場の立地が進んでおり,そこに浸水が発生すると被害が大きくなる。治水事業は浸水頻度を低下させる一方で,不幸にも被害ポテンシャルを高めている現実があり,この問題への対策が必要であった。
堤防の建設などによって浸水頻度が低下した地域に住む住民は,治水施設の効果を過信することで,洪水に対する危機意識を低下させている。このような住民は,実際に洪水が発生したときに適切な対応行動をとることができない。このため,被害が大きくなることが予想される。
このような問題は,治水施設整備のみに治水事業を委ねることの弊害であり,超過洪水対策の一環として,洪水ハザードマップに対する社会的要請は大きい。

3.洪水ハザードマップの効果

 洪水ハザードマップはその作成が始まって未だ10年に満たないが,既にいくつかの洪水時において実際に活用されその効果が確認されている。初めて効果が確認されたのは,1998年東日本豪雨災害時の郡山市においてである。阿武隈川の中流に位置する郡山市では,この洪水が発生する前に洪水ハザードマップを作成して住民に配布していた。洪水後に行われた洪水ハザードマップの活用状況調査によると,避難率はピーク時で約50%に及び,住民の多くは避難に際して洪水ハザードマップに示される避難場所を確認するなど,実際の避難に役立てていた。
 また,洪水ハザードマップを見た人の避難率は,見なかった人に比べて約10%高く,避難開始のタイミングも約1時間早かった。極めて緊迫した状態での約1時間の早い避難,そして約10%の避難率の相違は大きな効果と言ってよく,洪水ハザードマップが住民避難に効果をもたらすことが実証されたのである。
 郡山市の洪水ハザードマップは,その公表効果として住民避難に効果をもたらしただけではなく,郡山市当局の洪水危機管理にも効果をもたらした。郡山市の河川管理担当者は,洪水ハザードマップを作成する過程で示された浸水想定区域が,市街地を含め広範に及び,要避難人口が多いことを改めて認識した。そして,避難所の配置や避難経路の検討,避難勧告のタイミングを決めるなど,綿密な避難計画を立てることの必要性を痛感してそれを実行していた。この避難計画は1998年の洪水の際,住民避難を円滑に誘導することに大きな役割を果たすことになった。これは洪水ハザードマップの危機管理効果とも言える効果である。  このような洪水ハザードマップの効果は,2000年9月の東海豪雨における岐阜県多治見市などでも確認されている。

4.洪水避難の問題点と洪水ハザードマップの住民理解
の問題点

4.1 避難しない住民
 洪水ハザードマップの作成・公表や洪水発生時の避難情報伝達体制の強化など,洪水時の避難対策を中心に超過洪水対策が積極的に進められている昨今ではあるが,相変わらず洪水時の住民避難は円滑に行われていない。避難勧告や避難指示が発令された近年の事例を見ても,その避難率はほとんどが10%以下にとどまっているのが現状である。
 住民が避難しない基本的理由は,洪水氾濫に自らの生命の危機を感じないことにあり,それゆえ避難の必要性を感じないからである。もとより避難勧告や避難指示には罰則を伴う法的強制力はないため,洪水避難は最終的には住民の自主的判断に委ねられる。しかし,住民の多くが避難の必要性を認識しない現状では,避難率は低調にならざるを得ない。
 では何故,住民は避難の必要性を認識しないのか。その理由を以下に列挙してみよう。
 まず,災害心理学でいう「正常化の偏見」が作用することは,洪水に関わらず災害一般に指摘されていることである。平たく言えば,「河川が氾濫しても自分は被害に遭わない」と思ってしまう心理である。この正常化の偏見を乗り越えて避難を実行に移すためには,自然災害の現象としての不確実性の理解などに基づく理性的判断が必要になる。
 次に指摘できることは洪水氾濫そのものに関する知識やその対応の仕方に関する知恵の欠如である。この問題については,特に治水事業が進展したことの影響が大きい。治水事業の進展は,小規模な洪水(計画規模内の洪水)を排除することに貢献する一方で,住民が洪水の恐ろしさを体験する機会をも排除し洪水と住民の距離を大きくした。長年にわたり洪水を経験しない状態が続くことにより,洪水の恐ろしさは忘れ去られ,洪水をやり過ごす知恵の伝承も衰退の一途をたどっている。そして何時しか治水施設が完全に地域を守ってくれるかの如く誤解が生じ,いわば「災害過保護」の状態の住民が多くなった。
 また,こうした河川と人の暮らしとの距離感は,平時においても拡大の一途をたどった。河川の汚れや危険だからという理由により,幼少期に川で遊ぶ機会が減り,流れる水の力を体得する機会が少なくなった。これにより,河川が氾濫してからでも避難が可能と誤解する住民が極めて多くなった。
一方,洪水被害を経験していれば避難が円滑かと言えばそうでもない。過去に洪水による被害を経験した人でもそれが大きな被害ではなかった場合,「あの時は大丈夫だったから今回も大丈夫」という誤った考えを持ち,例え避難勧告がでても避難をしようとしない。東海豪雨災害においても,最も避難率が高かったのは,過去に床上浸水以上の被害を経験した人で,被害経験が全くない人がそれに続く。しかし過去に床下浸水を経験した人の避難率は最も低いものにとどまった。
 洪水避難の場合は,経済的被害の軽減行動との関係が大きいことも特徴となっている。河川が氾濫して家屋が浸かると判断したとしても,身の危険を感じない住民は避難よりも家財を浸水被害から守る行動を優先し,避難が遅れる傾向が顕著に見られる。
 以上のような,洪水避難の問題点は,住民の災害意識や災害情報理解に関連しており,こうした問題に対する改善策としては,洪水氾濫に関するリスク認識を住民に正しくもって頂くための災害理解教育が重要になる。そこにおいて洪水ハザードマップへの期待は大きい。

4.2 洪水ハザードマップの住民理解の現状
 では,現状として洪水ハザードマップは住民にどのように理解されているのかを見てみよう。洪水ハザードマップは,避難時のマニュアルの機能を有していることから,避難が必要な事態においては,大きな機能を発揮することは言うに及ばない。しかし,洪水に対する住民の認識に大きな問題点が存在する現状のなか,洪水ハザードマップの住民理解にもいくつかの問題点が確認されている。これらの問題点を解決することは,効果的な洪水ハザードマップを作成するための重要なポイントである。以下,その問題点を列挙する。
 まず,第一の問題点は,洪水ハザードマップを配布しても,それを捨ててしまったり無くしてしまったりする住民が多いことである。洪水ハザードマップを無くしてしまう住民は,時間が経つほど多くなる。洪水ハザードマップを無くしてしまう要因は,洪水を怖いと思っていないことから洪水ハザードマップに記述されている情報に興味を持たないこと,そして重要性を認識しないことである。洪水ハザードマップは,実際に洪水避難を行う場合の避難マニュアルの機能があるため,洪水ハザードマップの重要性を住民に知らせて保管していただくことが重要である。
 二つめの問題点は,洪水ハザードマップに示される情報が,洪水災害のイメージを固定化してしまうことである。住民が洪水ハザードマップから自宅の予想浸水深を読みとると,それがその人の予想する浸水深の最大値になってしまう。この時,洪水ハザードマップに示される浸水深が浅いと住民は安心して避難しようとしない。しかし洪水ハザードマップは,降雨や堤防の破堤についてシナリオを与えて,洪水氾濫のシミュレーションを行った結果が示されているに過ぎず,洪水氾濫がそのシナリオにとどまる保証は何もない。
 三つめの問題点は,洪水ハザードマップの表現能力の問題である。一般的な洪水ハザードマップは,紙の地図に予想浸水深がその区分に対応した色で表示されており,流速を表示することは難しい。しかし,勾配が急な市街地の場合,氾濫水の流速は速く,流速が速いと一般に浸水深は浅くなる傾向にある。流速が速い場合,例え浸水深が浅くても水の中を歩いて避難することは危険であるにも関わらず,住民は浅い浸水深に安心する傾向が強い。しかも,洪水ハザードマップに流速を示したとしても,速い流速の危険性を住民は理解していない問題点もある。
 四つめの問題点は,洪水ハザードマップが"洪水安全地図"に変わってしまう場合があることである。洪水ハザードマップにおいて,色の塗られていないエリア(予想浸水深がゼロのエリア)は,与えられたシナリオに基づく洪水氾濫シミュレーションにおいて,たまたま浸水が生じないエリアである。しかし,そのエリアに住む住民は,自分の住むエリアは洪水による浸水が生じないと理解する。
 以上のような問題点を克服するためには,洪水ハザードマップの公表のあり方が重要になる。ただ単に住民に配布するだけでは上記の問題をみすみす発生させることになり,時に逆効果すら懸念されることになる。重要なことは,洪水ハザードマップは,単なる一つの被災シナリオに過ぎず,当然のこととしてこれを越える洪水氾濫が生じ得ることを理解し,そしてその事態において自分が被害に遭わないための方法を住民自らが考える態度を身につけるためのインセティブを与えることである。そのためにも洪水ハザードマップは行政・専門家と住民のリスク・コミュニケーションのためのツールとして活用されることが重要となる。

5.まとめに代えて -洪水ハザードマップの活用のあり方-

 洪水避難と洪水ハザードマップの関係の観点に立つと,洪水ハザードマップの役割には,いくつかの段階がある。洪水ハザードマップの第一の役割は,洪水避難を実際に行う際に,避難マニュアルとして機能することである。洪水ハザードマップやそれに付属する解説書などによって,住民は避難に際して避難所の場所とそこまでの安全な避難ルートを確認することができる。まずは,住民に保管を呼びかけることが必要である。
 洪水ハザードマップの第二の役割は,住民それぞれに,自宅の洪水危険度に関する知識を与える機能である。確かに,何の知識も持たない状態より,知識があった方が良い場合も多々あるであろう。しかし既に指摘したように,洪水ハザードマップに示される情報を,そのまま固定的な知識として単に覚えることは危険であり,洪水ハザードマップを単に知識や情報の提供手段と位置づけることは避けるべきである。
 洪水ハザードマップの第三の役割は,洪水の危険を正しく理解し,自分が被害に遭わないための方法を住民自らに考える態度を身につけさせるためのインセンティブを与える機能である。洪水ハザードマップがいかなる状況の下でも,住民避難の円滑化,迅速化というその本来の機能を果たすためには,洪水ハザードマップを教材と位置づけて,住民に教育を行うことが重要である。そして洪水ハザードマップが最も効果を発揮する方法は,洪水ハザードマップを作成する過程から住民が参加して,洪水氾濫が発生したときに,どのような行動を取れば住民の命を守ることができるかを議論しながら,住民とともに作成を進めることである。水防法の改正を受けて,洪水ハザードマップは今後多くの自治体で作成されることになる。しかし,以上で見たように,洪水ハザードマップは,作成し配布するだけでは十分な効果を発揮しないばかりか,時に逆効果をもたらすこともある。洪水ハザードマップは,洪水に関する住民とのリスク・コミュニケーションの手段として活用されることで,その効果を最大限に発揮することができるのである。