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2017年10月24日(火)
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鳶頭政五郎覚書

鳶頭政五郎覚書

1.町鳶に生きる
(1) (2) (3)

(3)親父の夢は鳶の政五郎

そのころの鳶の仕事ってのは、消防組のほうは、火事1回出て手当いくらで、それに、秋口から春先まで火消の詰所での番が入る。それをやったときに、何がしかの手当がもらえるくらい。鳶仕事の本業にしたって、自分の受け持ちの町内だけのこと、うちのほうはとくに地域的に狭くて、40軒か50軒しかないわけで、仕事の量もたかがしれてる。
霊岸島濱町抱え(れいがんじまはまちょうかかえ)山口重次郎、濱町の鳶頭(かしら)っていうと聞こえはいいけど、町の抱えってことは、そこの町内の用務員みたいなもんで、町内の世話をいろいろやくのが仕事だった。今とちがって、建設業、専門工事業者といったもんではなく、ましてや4、50軒の受け持ちしかもたないで、いい収入があるわけがない。毎年新築増築があるわけじゃなし、それこそ不幸にして火事でもなけりゃ建て替えはない。要するに親父の場合は、鳶にしても火消にしても、決して恵まれた仕事ではなく、朝は人さまの起きる前に仕事をはじめて、夕日が落ちた後まで働いていた。
そんななかで、親父が私にしてくれたことが、どんなに大変だったことか。親父はただやりたいことやるだけで、陰でおふくろが内職仕事やってたこともわかったけど、お金があってもなかなかできるものではない。「無理してやるこたあ、ねえじゃねえか」ってのが今の考えだろうけど、それでは現在の私は育たなかったともいえる。時代のスケールもあるだろうけど、やっぱし人間のスケールなんだろうと思い出している。

4歳(昭和9年)のときの政五郎さんと父親の重次郎さん、それと鳶の仲間の人々。
当時政五郎さんはチョンマゲを結っていた。
LB中州通信 1997 1月号より

昭和49年、政五郎さんの子供たち。門前の小僧はしっかりと親の道を歩んでいる。
(写真提供 毎日新聞社)LB中州通信 1997 1月号より

私の家は三代にわたって鳶で、初代が竹次郎で、これは酒問屋・鹿島総本家のお抱えの鳶だった。二代目が重次郎。いま話したように、親父の重次郎ってのは、のんきで、家んなかに金の延べ棒が5本も6本もあるようなこと考えて生きている人で、おふくろってのは、なんでこんなに苦労するっていうぐらいに内職やったりなんかしながら子供育ててる。まあ、貧乏とは縁が切れなかった。
小学校へ行ってる当時、私の外套(がいとう)とか学校の制服が質草になっちゃうような家だった。暮れの仕入れがあるからって、そういったもの全部質入れされちゃって、何がしかの現金つくる。正月のお飾りってのは、我われの仕事のなかでは1年のうちでも最大の収益がある仕事だから、その材料仕入れるのに何でも金にした。
そうは言っても心配だった。こっちはこっちで正月くるのに、外套はないし服もなくて困っちゃう。
「とうちゃん、服だいじょうぶだよね」
なんて言っても、相手はかきいれどきで、頭から湯気でてるみたいなもんだから、
「あぁ、やぁ、おぉ」
ってなもんで、わけのわからない言葉吐くだけ。
「かあちゃん、早く服だしてくれよ、正月になっちゃうよ」
ってかあちゃんに頼んで、やっと正月に間に合ってとってくるなんてことがあって、ひやひやもんだった。出してくるとくちゃくちゃの皺だらけになってしまっているんだけど、アイロンなんてあるわけない。でも、ほっとしたのをおぼえている。
逆に見れば、親が必死で生きている姿を見ていたことにもなるわけで、こういったのは私の家だけじゃなかった。当時の町鳶の多くは、家内工業っていうのか一家総出ってのか、家のみんなで手伝っていた。親父、おふくろ、それに何人かの子供と、どっちかの祖父(じい)ちゃん、祖母(ばあ)ちゃん、そういうのがみんな手伝ってやっていたもんだ。もちろん、大きな仕事やっている鳶もいたけど、町鳶の多くはこうだった。

おふくろがさんざん苦労しながらやってるのに、親父は相変わらずのんき者、それで82歳のときに、
「ちょっと風邪ひいちゃった」
と言って寝込んでしまって、20日目にすーっと大往生で逝っちゃった。おふくろは77歳で死んだけど、若いときからずーっと子育てで苦労しっぱなし、年とっても苦労が抜けずにいて、やっと少しよくなったと思ったら自動車にひかれたのがもとで死んでしまった。それも歩道あるいていて、車庫から出てきたのにひかれて、そいで足折って、長いこと入院していたけど、結局それが原因で亡くなった。
苦労に苦労を重ねたおふくろがそんな死に方して、どっちかといえばのんびりのんきに生きた親父が天寿を全うした。なんていうのか、人間一寸先はわからないっていうけれども、一所懸命やったのに報いが少ないってのがあるもんだ。
そういう家庭で、私は昭和6年3月21日に、霊岸島の濱町で生まれた。親父の話では、私の政五郎って名前は、生まれる前から決まっていた。長男だから政太郎、政一とかいうならわかるけど、5番目でも5男でもないのに政五郎だ。要するに、ともかくこの道一筋で育てようという親父の思いがこもっている証拠で、この業界でやっていくに相応(ふさわ)しい名前を付けたいという親父の考えだった。親父の友人に第一区七番組の岩本っていう鳶頭がいて、通り名が政右衛門で、本名が政五郎。その岩本さんの名前が鳶として語呂がよかったんで、そのままもらって決めてしまった。“鳶の政五郎”ってのが親父の夢だった。そういう親父も仲間うちでは“閻魔の重(えんまのしげ)”といって、けっこう恐れられていたということだ。

霊岸島濱町の図面(文久3年)

明治になって二番組千組を引継いだ
第一大区十番組の纏と刺子半纏
月岡芳年 各大区纏鑑
霊岸島濱町を受け持った
二番組千組の纏と刺子半纏
歌川芳虎 江戸の花子供遊び