防災展示場
消防防災GIS
災害写真データベース
今日は何の日?
2017年5月29日(月)
過去の災害
全国統一防災標語
無防備な 心に火災が かくれんぼ (平成27年度)shim消しましょう その火その時 その場所で (平成28年度)shim火の用心 ことばを形に 習慣に (平成29年度)shimあなたは火事の恐ろしさを知らない (昭和43年度)shim今捨てたタバコの温度が700度 (昭和44年度)shim防火三百六十五日 (昭和45年度)shimいま燃えようとしている火がある (昭和46年度)shim慣れた火に 新たな注意 (昭和47年度)shim隣にも声かけあってよい防火 (昭和48年度)shim生活の一部にしよう火の点検 (昭和49年度)shim幸せを明日につなぐ火の始末 (昭和50年度)shim火災は人災 防ぐはあなた (昭和51年度)shim使う火を消すまで離すな目と心 (昭和52年度)shimそれぞれの持場で生かせ火の用心 (昭和53年度)shimこれくらいと思う油断を火が狙う (昭和54年度)shimあなたです! 火事を出すのも防ぐのも (昭和55年度)shim毎日が防火デーです ぼくの家 (昭和56年度)shim火の用心 心で用心 目で用心 (昭和57年度)shim点検は防火のはじまりしめくくり (昭和58年度)shim“あとで”より“いま”が大切 火の始末 (昭和59年度)shim怖いのは「消したつもり」と「消えたはず」 (昭和60年度)shim防火の大役 あなたが主役 (昭和61年度)shim消えたかな! 気になるあの火 もう一度 (昭和62年度)shimその火 その時 すぐ始末! (昭和63年度)shimおとなりに あげる安心 火の始末 (平成元年度)shimまず消そう 火への鈍感 無関心 (平成2年度)shim毎日が 火の元警報 発令中 (平成3年度)shim点検を 重ねて築く“火災ゼロ” (平成4年度)shim防火の輪 つなげて広げて なくす火事 (平成5年度)shim安心の 暮らしの中心 火の用心 (平成6年度)shim災害に 備えて日頃の 火の用心 (平成7年度)shim便利さに 慣れて忘れる 火のこわさ (平成8年度)shimつけた火は ちゃんと消すまで あなたの火 (平成9年度)shim気をつけて はじめはすべて 小さな火 (平成10年度)shimあぶないよ ひとりぼっちにした その火 (平成11年度)shim火をつけた あなたの責任 最後まで (平成12年度)shimたしかめて。火を消してから 次のこと (平成13年度)shim消す心 置いてください 火のそばに (平成14年度)shimその油断 火から炎へ 災いへ (平成15年度)shim火は消した? いつも心に きいてみて (平成16年度)shimあなたです 火のあるくらしの 見はり役 (平成17年度)shim消さないで あなたの心の 注意の火。 (平成18年度)shim火は見てる あなたが離れる その時を (平成19年度)shim火のしまつ 君がしなくて 誰がする (平成20年度)shim消えるまで ゆっくり火の元 にらめっ子 (平成21年度)shim「消したかな」 あなたを守る 合言葉 (平成22年度)shim消すまでは 出ない行かない 離れない (平成23年度)shim消したはず 決めつけないで もう一度  (平成24年度)shim消すまでは 心の警報 ONのまま (平成25年度)shimもういいかい 火を消すまでは まあだだよ (平成26年度)

1.江戸時代の消防

江戸時代の大火江戸時代の防火対策火消組織

江戸時代の消防

(3)火消組織

 組織面ではどうであったか。慶安3年(1650)、幕府は4,000石以上の旗本2人を火消役に任命している。これが定火消と称する幕府直轄の火消組織であり、頭の旗本の下にはそれぞれ与力・同心が付属し、臥煙(がえん)と称する火消人足が働く。はじめは2組で発足したが、明暦の大火後の万治元年(1658)には4組に増設された。このころの定員は512人と伝えられており、1組平均128人となるからかなりの大部隊である。この火消屋敷は現在の消防署に相当し、江戸城周辺の麹町、御茶の水、佐内坂、飯田町に配置され、江戸城防備が任務であった。


定火消の出場勢揃い、馬上が定火消役。
火消の七ツ道具をすっかり準備して出場直前の様子を画いたものである。(「江戸の華」より)
(「写真図説日本消防史」より)

 定火消のほかに、大名の藩邸自衛消防隊としての大名火消もあった。これは藩邸付近で火災が発生した場合に出動するもので、その範囲によって三丁火消、五丁火消、八丁火消などの形があった。
 また、幕府について動員徴用される大名火消もあり、これには方角火消、所々(しょしょ)火消がある。方角火消は正徳2年(1712)に制度化されたもので、江戸城を中心に5区に分けて担当の大名を決め、その方角に火災が発生すれば出動した。亨保7年(1722)には所々火消が制度化され、江戸城や芝増上寺、上野寛永寺、浅草御蔵、本所御米蔵など主要施設11か所を担当させた。


大名火消は、大火になるとこのように家臣、火消の者を従えて、
指定された受持場所の配置についた。(「江戸の華」より)
(「写真図説日本消防史」より)

 一方、町人による火消の編成は、定火消が生まれてからずいぶん後のことになる。正徳5年(1715)、火災が発生した場合、店ごとに火消役を動員させて火消にあたる店火消(たなびけし)が日本橋地域に発足しており、町単位で30人が火事場に出たと伝えられている。
 このころ、幕府の財政立て直しに取り組む8代将軍吉宗は、頻発する大火によって大きな打撃を受けていることから、その打開策は急を要した。そこですぐれた行政家である大岡越前守忠相と協議し、町地は店火消を拡大強化した町人による町火消を編成して護らせ、この防災費は町人側負担とすることとした。
 亨保3年(1718)、町火消編成令が下され、2、30町を一つの単位として火消組合をつくり、その担当地域を定め、組の目印が制定された。さらに亨保5年(1720)「いろは組」編成とし、いろは47文字に「ん」を加えた48組とし、語呂の良くない「へ、ら、ひ、ん」はそれぞれ「百、千、万、本」と入れ替えられた。町火消の定員数は、元文3年(1738)においては「いろは組」とは別に編成された本所・深川16組を加え、総員1万1,429人であったと伝えられている。火災による出費は町費をもって賄い、組員は無報酬である点など、今日の消防団の前身といわれるものである。定火消は公設(官設)消防、町火消は義勇消防の元祖として、江戸の治安維持に貢献した。


いろは組の内"を組"組を立て火に迎ふの景(江戸の華より)